「アサは彼の神、主を呼び求めていった。『主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください。わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。あなたはわたしたちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません。』」 歴代誌下14章10節

 1節に「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った」という評価が記されています(列王記上15章11節も)。ダビデの子らで初めてのことです。だからでしょうか。列王記では16節ですが(同15章9~24節)、歴代誌ではここから3章を割り当てるという、とても大きな扱いになっています。

 歴代誌はアサの父アビヤについて、列王記15章3節の「彼もまた父が先に犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった」という評価を削除し、替わってヤロブアムの背きの罪を糾弾しつつ「我々は我々の神、主に対する務めを守っている」(13章11節)と、主への信仰を明らかにしています。

 その信仰が「主の目にかなう正しく善いことを行った」(1節)アサを産んだということになりそうです。アサは、異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き(2,4節)、主を求め、律法と戒めを実行するように命じました(3節)。そのように主を求め、戒めに従うアサ王に、主は安らぎを与えられたので、国は平穏でした(5節、13章23節)。

 そこで、外敵に対する守りのために砦の町を築き、城壁を巡らして塔を建てました(5,6節)。国が平和に保たれているので、砦や城壁などは必要ないようなものですが、神の恵みを得たダビデ、ソロモンが、神殿建築を果たしたように、安らぎを与えられたアサも、建築事業を行ったわけです。

 彼には、盾と槍を携えるユダの兵30万、小盾を携え、弓を引くベニヤミンの兵28万がいました(7節)。しかし、それで国が安泰だというのではありません。小国ユダの平和は、主なる神が守ってくださればこそです。

 アサがユダの人々に「我々は、我々の神、主を求めたので、この地を保有することができる。主を求めたからこそ、主は周囲の者たちから我々を守って、安らぎを与えてくださったのだ」(6節)と語っているとおりです。

  だから、ユダに対してクシュ人ゼラが百万の軍隊と戦車3百両を率いてマレシャまで出て来たとき(8節)、アサ王は自分たちに倍する敵を迎え撃つために出陣しましたが(9節)、戦いを前にして、主を呼び求めて祈りました。

 冒頭の言葉(10節)は、その祈りの言葉であり、主に依り頼む信仰の告白です。ここにアサ王は、自分たちの信ずる神がユダに勝利をお与えくださることを確信していたのです。

 これは、「見よ、神が頭として我々と共におられ、その祭司たちは、あなたたちに対する進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない」(13章12節)と告げ、挟撃したイスラエル軍を前にして、主に助けを求めたアビヤ王の信仰に通じます(同14,15節)。

 主なる神は、アサのこの信仰の祈りに応え、クシュ人を撃たれたので(11節)、ゲラルまで追撃して一人残らず討ち取り、おびただしい戦利品を持ち帰ることが出来ました(12節)。また、ゲラル周辺のすべての町をも撃ちました(13節)。それは、ゲラル周辺に住むペリシテ人たちが、クシュ人に同行していたということだったのでしょうか。

 パウロは「神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ書8章31,32節)と語りました。

 ヨハネの手紙一4章4節には「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」と記されています。私たちの内にお迎えした主イエスが、世にいる者よりも強いお方であり、そのお方が私たちに味方していてくださるので、この世に対して、常に輝かしい勝利を収めることが出来ます。

 主イエスは悪霊払いについての論争で、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(マルコ3章27節)と言われました。

 私たちが主イエスを生活の真ん中、また心の中心にお迎えし、主の御言葉に従って歩んでいるならば、主を縛り上げることが出来るような強いものはこの世に存在しないので、略奪に遭って大切なものを失うというようなことは、全くないでしょう。

 しかしながら、私たちは信仰を持ってはいますが、いつの間にか主に従うというよりも自分で考え、自分で行動してしまうことがあります。完全に明け渡していない自分がいます。そして、あれこれとあくせく働いて、出て来るのは涙とため息、喜びも平安もない生活になっていることがあります。

 それは、心が縛られて、大切なものが奪われてしまった状態です。そしてそれを、自分でもどうしようもない状態になってしまうことがあります。そんなとき、もう一度、主を心にお迎えしましょう。主の御名を呼びましょう。主が祈りを聞いてくださいますから、どんなことでも感謝をもって神に願いましょう。

 そうすれば、主が約束通りに平安を授けてくださいます(フィリピ書4章6,7節)。聖霊を通して、神の愛を心に注いでくださいます(ローマ書5章5節)。主にあって、勝利に導いてくださいます(ヨハネ16章33節)。主に信頼し、絶えず主を呼び求めましょう。

 聖霊様、今日も私たちと共にいてください。私たちの内側をあなたの力と平安で満し、行くべきところに行き、語るべき言葉を語り、留まるべきところに留まり、なすべきことを行わせてください。あなたが悲しまれることをしないよう、守ってください。そうして、あなたが望まれる者にならせてください。御名が崇められますように。 アーメン!