「見よ、神が頭として我々と共におられ、その祭司たちは、あなたたちに対する進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない。」 歴代誌下13章12節

 北イスラエルの王ヤロブアムの治世第18年に、レハブアムの子アビヤが南ユダの王となりました(1節、列王記上15章1節では「アビヤム」と呼ばれている)。レハブアムのときと同様(12章15節)、ヤロブアムとアビヤの間にも戦いが続いていました(2節)。

 もともと、主が父レハブアムに対して「あなたたちの兄弟に闘いを挑むな、それぞれ自分の家に帰れ」(11章4節)と命じておられたのですが、上述の通り、レハブアムとヤロブアムの間に戦いが絶えず、主の戒めが守られない一面を明示していました。これも、「国が固まり、自らも力をつけ」(12章1節)た結果なのでしょうか。

 列王記では、アビヤについての叙述は簡単で、「父がさきに犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった」(列王記上15章3節)という評価がなされていますが、歴代誌には、そうした評価はありません。むしろ、主なる神への信仰に立って、神に背き、罪の道を歩むヤロブアムに立ち向かうという姿勢を示しています(4節以下参照)。

 歴代誌の著者は、列王記にはない独自資料でアビヤとヤロブアムの間の戦いを記述し、その際、列王記とは違う視点でアビヤを見ているわけです。

 この戦いにおいて、南ユダは40万の戦士をもって戦いに臨み、北イスラエルは倍の80万でそれに対抗します(3節)。この戦士たちの数は、かつてダビデがヨアブに命じて数えさせたものとほぼ同じです(サムエル記下24章9節)。つまり、互いに全軍で戦いに臨んでいるかたちです。

 開戦の前にアビヤが立ち上がり、ヤロブアムとイスラエル兵らに(4節)、イスラエルの王権は、ダビデとその子孫に与えられたものであり(5節)、ヤロブアムは主君への反逆者で(6節)、ならず者を集めて若輩のレハブアムを圧迫したと主張し(7節)、さらに、おびただしい軍勢と、おのが神として造った金の子牛像を頼みとして主の王国ユダに敵対していると非難します(8節)。

 ここで、「命知らずのならず者」(7節)は、「命知らず(レーク:「中身がない、空っぽ」の意)のならず者(ブネー・ベリアル:「ならず者の子ら」の意)」という言葉です。その命知らずのならず者が「彼のもとに集まって」(7節)で言及される「彼」を、ヤロブアムではなく、「自分の主君」(6節)、即ち、レハブアムのこととする解釈もあります。

 レハブアムと共に育ち、彼に仕えていた若者たち(10章8節)のことを、「命知らずのならず者」と考え、彼らの圧迫でレハブアムが長老たちの賢い忠告を退けた結果、王国が分裂することになったというわけです。7節後半の文言から、この方が正しい理解ではないかと思われます。

 そう考えると、アビヤはレハブアムのような「若すぎて気も弱い」者ではないから、ヤロブアムが命知らずのならず者として自分を圧迫することなど出来はしないと言っていることになるでしょう。

 また、ソロモンの背きのゆえに主なる神がヤロブアムを選んで北イスラエルの王としてお立てになったと列王記に記されており(列王記上11章31節以下)、ソロモンへの反逆というアビヤの非難は言いがかりというところですが、しかし、神の戒めに背いて金の子牛像を造り(8節)、また、主の祭司やレビ人たちを退けたことは(9節)、まさに主への敵対行為です。

 9節の「神でないもの」は、ホセア諸8章6節では「サマリアの子牛」に対して用いられているので、ここでも「ヤロブアムがあなたたちのために造って神とした金の子牛」(8節)のことを指すとも考えられますが、11章15節との関連で「山羊の魔神」のことではないかと考える学者もいます。

 一方、南ユダは主を礼拝し、主に従って歩んでいると告げ(10節以下)、冒頭の言葉(12節)の通り、神は自分たちに味方されており、今や、神の祭司たちが進軍ラッパを吹き鳴らそうとしている。どう考えても勝ち目はないのだから、主なる神に戦いを挑むことはやめよと宣言します。

 しかし、このような物言いで、相手が軍を引くとは考え難いところです。ヤロブアムはアビヤの言葉に反発するかのごとく軍隊を進め、兵を二分して、伏兵をユダの後ろに回らせます(13節)。ユダ軍を挟撃する作戦です。前にも後にも、自軍と同じ規模の敵軍が配置され、迫って来ます。絶体絶命、アビヤ軍全滅の危機です。

 それに気づいたユダの人々は、主に助けを求めて叫び、祭司はラッパを吹き(14節)、そして、ユダの人々が鬨の声を上げます(15節)。すると、神が敵をユダの手に渡されたので(16節)、敵の大軍に大打撃を与え、50万の兵を剣で倒しました(17節)。自軍を倍する敵に、兵の少ないユダが圧倒的勝利を収めたのです。

 それは、兵の数によらず、その強さによらず、主を頼みとしたからです(18節)。かつて、ヨシュア率いるイスラエル軍がエリコの町を攻めた際、主の御告げの通りに町を巡り、祭司が角笛を吹き、民が鬨の声を上げると、町の城壁が崩れ落ちて町を滅ぼし尽くたという出来事を思い起こします(ヨシュア記6章20節)。

 列王記上15章9節によれば、アビヤよりもアブサロムの方が長生きをしていますが、歴代誌では、「アビヤの時代代に二度と勢力を回復できず、主に撃たれて死んだ」(20節)とされます。「撃たれて」は、15節の「撃退された」(ナーガフ)と同じ動詞です。敵軍の将ヤロブアムの死をもって、北イスラエルの敗戦を特徴づけているようです。

 武力に勝るイスラエル軍にアビヤの軍が勝利出来たのは、主を頼みとしたからでした(8節)。16章7,8節でも主を頼みとするかどうかが、ユダにとって決定的な条件であることが示されます。歴代誌の著者は、捕囚後を生きる民にも、主を頼みとすることの重要性を教えようとしているのです。

 神の憐れみなしには、人に救いはありません。主なる神はそのことを私たちに教えるために、独り子を世に遣わされました。ところが、イスラエルの宗教指導者たち、彼らに扇動されたエルサレムの民は、愚かにも神の子を十字架につけて殺してしまいます。しかも、それは良い事をしたかのように思っていたのです。

 しかるに神は私たちを憐れみ、罪のない独り子の死をもって私たちの罪を贖い、救いの道を開いてくださいました。もう、感謝のほかありません。だから、主イエスが語られる言葉に喜びをもって従うしかないのです。

 感謝をもって御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾け、その恵みに与った喜びをもって導きに従いましょう。

 主よ、十字架で贖いの御業を成し遂げ、救いの道を開いてくださった主イエスに感謝します。愚かで弱い私たちを憐れみ、絶えず正しい道、命の道に導いてください。御言葉と御霊の働きによって私たちを清めてください。あなたが望まれるような者になれますように。そして、御業のために用いてください。 アーメン!