「王がへりくだったので、主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった。ユダにも良い事があった。」 歴代誌下12章12節

 「主を求めようと心を定めた者たち」が、ユダの国を強くし、レハブアムを支援しました(11章16,17節)。ダビデの道に歩む彼らを通して、神がユダの国を祝福されたわけです。ところが、国が固まり、自らも強くなると、なんとレハブアムは主の律法を捨て、「ダビデとソロモンの道」(11章17節)に歩むことをやめてしまいます(1節)。

 「主の律法を捨てる」ということは、主の教えに背くということで、異教の神々を礼拝するということを意味しています。ダビデとソロモンの道を歩むことで、主を求めようと心を定めた者たちの支援もあって、国が固まり、レハブアムも力をつけましたが、それによって道を踏み外してしまいました。「自らも力をつける」という表現には、思い上がりという意味が込められているようです。

 「主を求めようと心を定めた者たち」がユダの国を強くし、レハブアムを支援したのは、3年間と記されていました(11章17節)。ということは、レハブアムの治世第4年に、主の律法に従うことをやめたわけです。

 すると、主の律法から離れたレハブアムを咎めるように、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来ました(2節)。レハブアムは、ベツレヘム、エタム、テコア、ベト・ツルなどユダの各地に砦の町を建設していましたが(11章5節以下)、それら15もの町々を要塞化する工事が、4年で既に完了していたとは考えられず、工事中の町も少なくなかったことでしょう。

 そんな状況の中、戦車千二百両、騎兵六万を擁し、リビア、スキイム、クシュの人々からなる数え切れない傭兵を伴って攻め上ってきたエジプトの侵攻を食い止めることは出来ませんでした(3節)。彼らは、砦の町を次々に陥れ、首都エルサレムに迫って来ます(4節)。

 ソロモンはファラオの娘を后に迎え、彼女のために宮殿を建て(8章11節)、エジプトとの友好関係は保たれていたはずです。また、レハブアムがエジプトを侵略したという事実もないと思います。にも拘わらず、シシャクが攻め上って来たのは、「彼らが主に背いたから」(2節)と説明されています。

 ただ、ソロモンの後継者レハブアムは、アンモン人ナアマの子であり(13節)、ファラオの娘の産んだ子ではありませんでした。王妃700人、側室300人(列王記上11章3節)からどれ程の王子が生まれたのか、その中からどのようにしてレハブアムが選ばれたのか、全く不明ですが、そうしたことが、エジプトとの関係にひびを入れる結果となったのでしょうか。

 将軍たちが王を交えて軍議を開いているところ、預言者シェマヤがやって来て、「あなたたちが主を捨てたので、主もあなたたちを捨てて、シシャクの手に渡す」と告げました(5節)。ということは、両国の関係がどうであれ、神がエジプトを、イスラエルを打つ道具として用いておられるということになります。

 主の律法を捨てることは、主を捨てることであり、だから、主から捨てられることになったのです。預言者の言葉を聞いた王と将軍たちは、「主は正しい」(6節)と謙ります。主の律法を捨てたのが自分たちの誤りだったと認め、悔い改めたわけです。

 その謙りをご覧になった主は、「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさず、まもなく彼らに救いを与える。わたしの怒りをシシャクの手によってエルサレムに注ぐことはしない」(7節)と、その怒りの拳を降ろされます。

 これは、レハブアムの罪が全く不問とされたというのではありません。攻めて来たシシャクによって神殿も王宮も荒らされ、あらゆる宝物が奪い去られました(9節)。しかし、エルサレムは滅亡を免れました。冒頭の言葉(12節)の通り「主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった」のです。

 そして、「ユダにも良い事があった」と記されています。良い事とは、何より滅亡を免れたことでしょう。それは、王が謙ったゆえでした。となれば、王が神の前に謙ることを、「良い事」と言っているのかも知れません。さらに、彼らの謙りの結果、主の恵みに与り、それからのレハブアムの治世に「良い事」が始まったのです。

 国力が増すと、王の心はいつの間にか傲慢になりました。神の守りを自分の実力であるかのように思い上がります。高ぶって神の教えを捨てたためにエジプトの侵略を受け、主の御前に謙ったとき、主の憐れみを受けました。ソロモンの知恵と富でその名を世界にとどろかせたイスラエルが、それらのものをすべて失ったために、もう一度、主を頼りとするようになったのです。

 すべての宝物は失われてしまいました。しかしそれは、もともと与えられたものっだのです。主は生きておられ、私たちに必要なものをもう一度お与えになることが出来ます。金の盾が青銅の盾に替わっても、特に支障はありません。

 「主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)のです。主から離れたとき、砦の町は役に立ちませんでした。主の神殿と王宮、その宝物、ソロモンが造った金の盾なども、何の役に立ちません。

 しかし、主は私たちを愛し、守ってくださるお方です。「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(同2節)、主を信じ、主に依り頼めばよいのです。主のもとに安んじて憩えばよいのです。

 レハブアムの父ソロモンは、多くの外国人女性によって心迷わされて偶像に従う者となりました(列王記上11章3,4節)。そして、母ナアマはアンモン人です。アンモンの神ミルコム、あるいはモレク神を礼拝した母の影響を受けて(同5,7節)、主の律法を捨てることになったのかも知れません。

 それで、残念なことにレハブアムは、17年の治世の間「心を定めて主を求めることをせず、悪を行った」(14節)という評価を受けています。私たちは、日毎に御言葉に耳を傾け、心を定めて主を求める者、その導きに従って歩む者にならせていただきましょう。

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝します。聖霊様、私たちの心に歓迎申し上げます。私たちの心の王座にお就きください。私たちに不必要なものはすべて取り去ってください。絶えず心を定めて主を求め、その導きに素直に聴き従うものとしてください。御名が崇められますように。御心がこの地に行われますように。 アーメン!