「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。」 歴代誌下7章14節

 ソロモンが祈り終わると、天から火が降って祭壇のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちましたた(1節)。エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者たちと戦ったときのような光景が展開しました(列王記上18章38節)。これは、ダビデが神殿用地を購入して献げ物をささげたときと同様(歴代誌上21章26節)、ソロモンの祈りを聞き届けたというしるしです。

 この記述は、列王記にはありません。列王記は、祈り終わったソロモンが、立ち上がってイスラエルの全会衆を祝福したといい(列王記上8章54,55節)、祝福の言葉を記しています(同56節以下)。歴代誌の記者は、ソロモン王の祝福の言葉の代わりに、その祈りに対する応答として、主が天から火を降されたと記しているわけです。

 それは、裁きの火ではなく、当にソロモンを祝福し、イスラエルの民を祝福する火です。火が降って神殿に神の栄光が満ちたのを見たイスラエルの民は、敷石の上に顔を伏せて礼拝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」(3節)と賛美しました。

 前に詠唱者が「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美をささげたときに、雲が神殿に満ち、神の栄光が満ちるという出来事がありました(5章13,14節)。度々、栄光が満ちたというより、その間ずっと神の栄光が満ち溢れていたということでしょう。

 そして、ソロモンはすべての民と共に牛2万2千頭、羊12万匹を献げて神殿を奉献しました(4,5節、列王記上8章62節以下)。その量があまりに多かったので、祭壇だけでは供え尽くすことが出来ず、神殿の庭の中央部を聖別して、そこで献げ物をささげました(7節)。

 そのとき、ソロモンはレボ・ハマトからエジプトの川に至るまで(イスラエルの最大版図)の全会衆と共に七日間の祭を執り行い、八日目に聖なる集まりを開きました(8節以下)。これは、第七の月の祭りのときに契約の箱を神殿に担ぎ上るという出来事(5章2節以下)も含め、仮庵祭と呼ばれる秋の収穫を喜び祝う祭りです。

 神殿と王宮が完成し、奉献の儀式をなし終えた夜、主がソロモンに顕現され(11節)、「わたしはあなたの祈りを聞き届け、このところを選び、いけにえのささげららレルわたしの神殿とした」(12節)と言われました。神殿の完成に加え、王宮が完成したことを述べて、ここに、ダビデの家が堅く据えられ、王朝が確立したことを示しています。

 そして、ソロモンの祈りに対する応答として、神が天を閉ざして雨が降らなくするとき、いなごに大地を食い荒らさせるとき、民に疫病を送り込むとき(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、民がひざまずいて祈り、神の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、神が祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒すという約束が語られています。

 確かにそれは、ソロモンが6章19節以下で祈り求めた祈りの答えです。大旱魃で飢饉となったり、イナゴの大発生で農作物が食い荒らされたり、また、疫病が流行したとき、それらがすべて、人の罪のゆえだとは考えません。近年各地で頻発している大地震も、また突然襲って来る豪雨なども、それらがみな神の裁きだとは思いません。

 しかし、イスラエルの民の背きに神が天変地異を起こされた時、そこで民がひざまずいて祈り、御顔を求めて神に立ち帰るなら、神がその祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒してくださるということは、神は、私たちが絶えず祈ること、御顔を慕い求めること、常に神のもとに立ち帰ることを要求しておられるということであり、神はその祈り願いを聞き届けようと思っておられるということです。

 新約においても、「求めなさい」(マタイ7章7節)、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ5章17節)、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)と命じられているとおりです。

 私たちの前に困難がおかれると、自分の限界を知ります。そこで謙遜を学ぶでしょう。どうして良いか分からずに神を呼ぶでしょう。そこに祈りがあります。そうした中で神の御声を聴くでしょう。そこに恵みがあります。困難に遭遇するのはいやなものですが、神の御前に謙って祈り、主の恵みを味わうために困難が与えられたというように受け止めることが出来るのであれば、何と幸いなことでしょう。

 使徒言行録17章26~27節に「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と記されています。

 季節を決めるということは、人生にはバラ色の春というような状況もあれば、夏の猛烈な暑さ、冬の厳しい寒さを味わうようなときもあるし、すべてが枯れ果てるような晩秋もあるということでしょう。

 居住地の境界をお決めになったということは、どこに行っても良い、何をしても良いというのではなく、行けない場所がある、出来ないことがある。勿論、すべてを所有することなどは出来ない。そこで自分の限界を知るということではないでしょうか。

 四季それぞれにある苦しみから祈りに導かれることもあれば、四季の恵みを味わって神に感謝することもあるでしょう。春だから素晴らしいとは言えない人がいるでしょう。一方、冬の厳しさを素晴らしいという人もいます。いずれの人も、神の前に出ることが出来ます。御顔を慕い求めるとき、誰もが神を見出すことが出来ると言われています。それが最も素晴らしいことでしょう。

 主の御前に謙り、御顔を慕い求めましょう。御言葉に耳を傾けましょう。その導きに素直に従いましょう。そうして、主の豊かな恵みを感謝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と、心から主に賛美をささげましょう。

 主よ、あなたが私たちを祈りに導こうとしておられることを感謝します。私たちの祈りを聞き届けてくださるという約束を感謝します。絶えず、主の御声に耳を傾け、導きに従って歩ませてください。傲慢にならないよう、柔和と謙遜を学ばせてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!