「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」 歴代誌下3章1節

 冒頭の言葉(1節)のとおり、ソロモンが主の神殿の建築を始めました。それは、その治世の第4年2月2日のことです(2節)。

 古い尺度では1アンマが約52cmということなので、奥行き60アンマ=31.2m、間口20アンマ=10.4mという大きさです(3節)。高さが記されておりませんが、列王記上6章2節によれば、30アンマ=15.6mです。4節に前廊の高さが120アンマ=62.4mとされていますので、前廊が塔のようになっていたということでしょう。

 神殿の内部は、20アンマ=10.4m四方の部屋三つに区切られています(4,8節、列王記上6章3,4節)。最初の部屋が前廊(4節)、それから外陣とも呼ばれる聖所(拝殿)、そして、内陣とも呼ばれる至聖所です(8節)。

 内部には糸杉が貼り付けられ、それを金で覆い、そこにナツメヤシと網目模様の浮き彫りが施され(5節)、さらに宝石で飾られました(6節)。また、壁にはケルビムの浮き彫りがつけられました(7節)。至聖所には、2体のケルビムが置かれました(10節)。

 聖所と至聖所を分けるのは、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で作られる垂れ幕で、そこにもケルビムの縫い取りが施されました(14節)。神殿入り口には、ヤキンとボアズという名の青銅製の2本の柱を立てました。民はこの柱の間を通って、前廊に入ることになります。

 ヤキンとは 主が設立されたという意味、ボアズとは、力をもってという意味だと言われます。すると、「この神殿は、主が御力をもって設立されたものだ」ということを示すモニュメントとして、2本の青銅の柱が神殿入り口に立てられたということになります。

 ところで、神殿が建てられたのはエルサレムのモリヤ山で、そこはかつて、エブス人オルナンの麦打ち場があったと、1節に記されています。かつて、ダビデが民の数を数えようとして神の怒りを招き(歴代上21章1節以下)、疫病で7万もの死者が出ました(同14節)。民を打つ天使がエルサレムの町に襲いかかろうとしたとき、神が天使にストップをかけました(同15節)。

 天使はそのとき、この麦打ち場の傍らにいました。一方、神はダビデに、オルナンの麦打ち場に祭壇を築かせ(同18節)、ダビデはそこでいけにえをささげます(同26節)。その祈りが聞かれ、疫病はやみました(同27節))。神が天使をストップさせた背後に、このダビデの祈りがあったというわけです。そして、それも神の導きでした。

 民の苦しみを見て自らの罪を深く悔いているダビデに、祭壇を築くこと、つまり神の御前にいけにえをささげて祈ることを、神が命じられたのです。神はダビデの心を見、また疫病に苦しむ民の呻きを聞かれて、災いを思い返されたのです。ダビデはその場所に神殿を築くことにしました(歴代上22章1節)。

 ダビデがこの神殿を見ることは許されませんでしたが、かつてダビデが神の前に罪を犯し、裁きがなされた場所、そして、そのための執り成しがなされ、犠牲が捧げられた場所に神殿が建てられたということを、この記事を通して繰り返し思い起こすことで、神の憐れみをその都度新たに味わうことが出来ます。こうして、罪の増すところ、主の恵みもまたいや増すのです(ローマ5章20節)。

 また、モリヤ山と言えば、かつてアブラハムが神に命じられて、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として神にささげようとした場所です(創世記22章1節以下、2節)。それは、神がアブラハムの信仰を試されたのでした(同12節参照)。そして、神はイサクの代わりに雄羊を用意しておられ、それをいけにえとしました(同13節)。

 アブラハムは、神がいつも自分を見守っていてくださること、必要を満たしてくださることを知り、そこを「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました(同14節)。ヤーウェ・イルエの直訳は、「主は見ておられる」という言葉です。神はご自分に従う者をご覧になって、その必要を豊かに満たしてくださるということです。

 そのことで、「人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」(同14節)と記しています。ここで、「主の山」というのは、詩編24編3節、イザヤ書2章3節などから、神殿の丘を指すものであることが分かります。つまり、創世記の著者は、イサクをささげようとした「モリヤの山」が、未来の神殿が建てられる場所であることを知らせようとしていたわけです。

 そして何より重要なことは、神殿を建てられたその場所は、やがて神の独り子キリスト・イエスの十字架が建てられる場所になったのです。キリストこそ、ダビデの罪を赦し、アブラハムに甦りの命を証しするためにささげられた神の小羊です。絶えず十字架の主を見上げ、憐れみの主の御声に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御子イエスの贖いのゆえに感謝します。私たちはキリストのものとされ、主は私たちの体を、神が遣わされた聖霊の宿る神殿とされました。この体で、神の栄光を表わすことが出来ますように。絶えず主の十字架を仰ぎ、御言葉に従って歩ませてください。 アーメン