「最初の時にはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」 歴代誌上15章13節

 ダビデ王は、再度エルサレムに神の箱を迎える準備をしました(1節、13章参照)。今回は「神の箱を担ぐのはレビでなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である」(2節、民数記1章50節以下参照)といって、レビ人を招集しました。

 ここで、サムエル記では「神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった」(サムエル記下6章12節)のがきっかけで、再度、箱を担ぎ上ることにしたとされています。それが確認されなければ、ダビデは箱をエルサレムに運び込むのを断念したかもしれないといった扱い方でした。

 歴代誌は、「三ヶ月の間、神の箱はオベド・エドムの家族とともに、その家の中にあった」(13章14節)という報告に合わせるように、神の箱を迎える前に「ダビデ王の勢力増大」の記事を入れ、その後、再び神の箱を迎えるために準備を始めたというかたちにしています。

 ダビデによって呼び集められたのは、ケハトの一族120人、メラリの一族220人、ゲルショムの一族130人、エリツァファンの一族200人、ヘブロンの一族80人、ウジエルの一族112人、計962人でした(5節以下)。

 規定に従えば、神の箱を担うのはケハトの一族で(民数記3章6節以下、31節、4章4節以下、15節参照)、神の箱を担うのには10人も要らないのではないかと思われますが、長距離を運ぶので、何度も交代しながら、担ぎ上るのでしょう。また、誰も不用意に神の箱に近づいて打たれることがないように、周囲の警護などもかねて、大人数で進んで行くのでしょう。

 神の箱を担ぐのはレビ人でなければならないということを、ダビデはいつ知ったのでしょうか。冒頭の言葉(13節)でダビデは「最初の時にはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた」と言っています。箱を運ぶにはどうすべきかを知らなかったのなら、当然神に聴くべきでしたし、知っていたのなら、何故従わなかったのかということになります。

 「わたしたちが法に従って主を求めなかったからである」は、口語訳のように「われわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」と訳すことも出来ます。いずれにせよ、初めの方法は、神の法に背くことで、主を求めず、軽率にことを進めてしまったと、ダビデはここに自らの罪を言い表し、悔い改めています。

 この背後に、預言者ナタンらの指導があったのかも知れません。あるいは祭司、レビ人の進言があったのかも知れません。そして、素直に神に聴き、その教えに従ったのです。こうしてダビデは、ウザの命という重い代償を払って、神を畏れること、謙虚に神に聴くことを学んだのです。

 王の命に従い、祭司とレビ人は、イスラエルの神、主の箱を運び上げるために自らを聖別し(14節)、主の言葉に従ってモーセが命じたとおり、レビ人たちが竿を肩に当てて神の箱を担ぎました(15節)。

 ダビデは、神の箱が運ばれるとき、その周りに詠唱者を配し、楽器を奏で、声を張り上げて喜び祝わせました(16節以下)。ここで、20節の「アラモト」は、「アルマー(結婚可能な年齢の女性)」の複数形で、ソプラノという意味でしょうか。21節の「第八調」はオクターブの意味と考えられています。

 詠唱者のリストの中にオベド・エドムの名があります(18,21,24節)。詠唱者や門衛はレビ人の任務とされているので、13章14節のガト人(=ペリシテ人)オベド・エドムとは別人だと考えざるを得ません。

 箱を担ぐ者、楽器を奏で、詠唱する者たちを任務に就かせたイスラエルの王ダビデは、長老、千人隊の長たちと共に喜び祝いつつ、箱を運び上げます(25節)。ダビデは、亜麻布の上着をまとい、麻のエフォドを身に着けていました(27節)。そして、主の契約の箱の前で喜び踊ります(29節、サムエル記下6章14節)。

 それは単に、神の箱が町にやって来たということだけではないでしょう。だびでにとって、まさに神ご自身との交わりがますます近く、深く豊かに行われるということで、それを思うとき、喜びのあまり踊らざるを得なかったのだと思います。

 主イエスは、最後の晩餐の祈りの中で、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17章3節)と言われました。「永遠の命とは、神と、神のお遣わしになったイエス・キリストとを知ること」というのは、とても不思議な言葉でしょう。

 「知る」とは、聖書において単なる知識ではなく、人格的な交わりがあることを言います。だれかと人格的な交わりがあるということを、その人を知っているというわけです。それは、握手する、接吻を交わす、抱き合うという体の接触を伴うような、また同じ釜の飯を食うというような、親密な交わりです。

 確かに、真の神との交わり、主イエスとの交わり、そして、主が遣わされる真理の御霊との交わりこそ、私たちの命です。たとい永遠に生きることが出来たとしても、愛する者、親しい者がそこにいなければ、かえって空しいときを長く過ごさなければならないことでしょう。命は、信頼する人、愛すべき人々との親密な交わりがあればこそです。

 主イエスが「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10章10節)と仰いましたが、それはまさに、私たちと主との豊かな交わり、主を信じる者たちとの親密で豊かな交わりを授けてくださると言われているわけです。

 ダビデが、神との交わりで喜び踊ったように、私たちも絶えず御霊に満たされて、主イエスの御名によって「アッバ、父よ」と父なる神を呼び、三位一体なる神との交わりを通して、いよいよ豊かな喜びと平安に与らせていただきましょう。

 主よ、日毎に御言葉を聴き、その導きに従順に歩むことが出来ますように。御言葉に命があり、御言葉に聴き従うことこそ、私たちの力であることを教えてください。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。主イエスの十字架を仰ぎます。命の道、真理の道にまっすぐに導いてください。 アーメン