「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として揺るぎないものとされ、主の民イスラエルのために彼の王権を非常に高めてくださったことを悟った。」 歴代誌上14章2節

 隣国ティルスの王ヒラムが、エルサレムを都に定めた(11章4節以下、7節)ダビデのもとに使節を派遣しました。それは、都に王宮を建設するためです(1節)。ヒラムはレバノン杉に石工や大工など技術者と、建設に必要なものを送って来ました。

 神を畏れることを学んだダビデは、冒頭の言葉(2節)のとおり、主が王権を高めてくださったことを悟りました。それは、主に背いた罪のためにペリシテとの戦いにおいて息子たちと共に戦死し、王位をダビデに譲らなければならなくなったサウル王と比較して(10章13,14節)、まったく対照的な記述です。

 3節以下に、エルサレムで生まれたダビデの子らの名が記されています。これもサウル家との対比が示されます。9章39節以下にサウルの家系が記されていましたが、しかし、ギルボア山でのペリシテとの戦いでサウルの3人の息子たちが戦死し(10章2節)、サウル自身も深手を負い、自害して果てました(同3,4節)。

 その結果、歴代誌の著者は10章6節に「その家もすべて絶えた」と記しています。ただし、その時点ではエシュバアルが残っていたはずですし(8章33節、9章39節、サムエル記下2章8節:イシュ・ボシェトのこと)、ヨナタンの息子メリブ・バアル(8章34節9章40節、サムエル記下9章6節:メフィ・ボシェトのこと)もいました。

 サムエル記とは違い、歴代誌はエシュバアルが王位を継いだことや家臣に案去るされたこと、メフィ・ボシェトがダビデに保護されたことなどを記録に残していません。「すべて絶えた」と記述して、すべて割愛したというかたちです。

 一方、ダビデの家は主によって豊かに祝され、その王権を高めて頂きました。子らの名簿の中に、ダビデの跡を継いで家を確立することになるソロモンが含まれています(17章11節以下参照)。

 3章5,6節に、シャムア、ショバブ、ナタンとあわせて4人がアミエルの娘バト・シュアの子と記されていました。サムエル記はソロモンの母を「エリアムの娘バト・シェバ」(同11章3節、12章24節)と記しています。歴代誌はダビデが犯した罪とソロモン誕生の関係について(同11章参照)、全く触れてはいません。

 8節以下、ダビデ王即位を聞いたペリシテ軍が攻め上り、レファイムの谷に侵入したと記されています。神の託宣を受けたダビデは(10節)、これを討ち破りました(11節)。再び攻めて来たときも(13節以下)、神に命じられたとおりに行動して快勝しました(16節)。これで、10章の状況が逆転しました。そのため、ダビデの名声はすべての国々に及んだのです(17節)。

 11節に「彼らはバアル・ペラツィムに攻め上り、ダビデは敵を打ち滅ぼして」とあります。バアル・ペラツィムは、エルサレムからベツレヘムへと至るレファイムの谷にあります(9節)。ペラツィムは「破れ」と訳される「ペレツ」の複数形です。

 その動詞形は「破る、打ち破る」と訳されているパーラツという言葉です。それが13章11節で「打ち砕く」、「ペレツ・ウザ」というところに用いられています。即ちペリシテの方法で神の箱を運搬していた(サムエル記上6章7節参照)ウザを、主が打ち砕かれたという出来事です。

 話を元に戻して、ダビデの名声はますます広く伝えられ、諸国の民に恐れられるようになりました(17節)。そこには、ダビデの勇猛果敢な戦いぶりもあったと思いますが、それより何より、彼が神の御声に聴き従った結果だと、歴代誌の記者は告げているわけです。

 勿論、ダビデが高ぶったことがないというわけではありません。ダビデが人口調査をして神の怒りを買ったことがあります(21章、サムエル記下24章)。それは、王が自軍の兵馬の数など、目に見えるものを頼みとしているしるしで、そのとき、ダビデの心には、謙って神に聴くこと、万軍の主に信頼する思いが希薄になっていたのです。

 詩編33編16~18節に「主の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」と詠われています。

 それは、勝利を賜る主への信仰の重要性を教えるものです。けれども、人がいかに見えるものに左右されるか、見えない主に信頼し続けることがいかに容易でないかということを示しているようです(44編7節、147編10節なども参照)。

 申命記17章14節以下に、イスラエルの王に関する規定が記されています。そこに「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを造り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」(同18~19節)と定められています。

 この規定を守る理由、その目的について、続く20節に「そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる」と告げられています。

 ダビデの王権は、ダビデのものではありません。彼が優秀だから与えられたのではありません。王位が揺るぎなく、王権が高められたのは、イスラエルの民のためです。ダビデが不動の王位、高い王権のゆえに高ぶってはならないのです。謙って神に聴き、民のために働かなければなりません。

 傍らに置かれている神の御言葉に耳を傾け、神の戒め、教えから右にも左にもそれることなく歩むならば、その時、彼はいよいよ高く上げられ、その王権はいよいよ堅くされるのです。そのように神を畏れ、謙って導きに従い、イスラエルの民に仕えるならば、王と民の間に尊敬と信頼の関係が築かれ、イスラエルに平和が訪れ、民は繁栄を喜ぶことが出来ます。

 主イエスは、「わたしの名によって願いなさい」(ヨハネ福音書16章24節)と教えられました。主イエスと弟子たちとの間の信頼関係が築かれているということです。主に信頼する弟子の願いがかなえられ、喜びで満たされます。そして、願いが叶えられた弟子たちだけでなく、それを叶えられた主にも喜びがあり、共々に大きな喜びに満たされるのです。

 父なる神が遣わしてくださった真理の御霊によって真理を悟り(ヨハネ14章16,17節、16章13節など)、忠実に御言葉に聴き従って主に栄光を返しましょう。聖霊によって、私たちは「アッバ、父よ」と神を呼ぶことが出来ます(ローマ書8章15節、ガラテヤ書4章6節)。

 聖霊を通して心に神の愛が注がれています(ローマ書5章5節)。たえず御霊に満たしていただきましょう(エフェソ書5章18節)。聖霊の力を受けて、主の恵みを証ししましょう(使徒言行録1章8節)。そのために、常に謙って主の御言葉に耳を傾けましょう。主の導きを祈ります。

 主よ、あなたは十字架の死に至るまで従順であられた主イエスを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。すべての者が主の 御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と宣言して神を称えるためです。絶えず主の前に謙り、命の言葉を聴かせてください。御業を行って主の御名を崇めさせてください。 アーメン