「その日、ダビデは神を恐れ、『どうして神の箱をわたしのもとに迎えることができようか』と言って、ダビデの町、自分のもとに箱を移さなかった。彼は箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。」 歴代誌上13章12,13節

 ダビデは、長い間キルヤト・エアリムに置かれたままになっていた神の箱を、エルサレムに運んでくることにしました(1節以下)。サムエル記下6章に並行記事がありますが、1~5節は、サムエル記にはない歴代誌独自のもので、ダビデが即位のときから全イスラエルを代表する存在として示されるという執筆者の意図に基づくものと考えられます。 

 3節で「サウルの時代にわたしたちはこれ(神の箱)をおろそかにした」と言っていますが、サムエルの時代からずっと忘れられたような存在になっていました(サムエル記上7章1,2節)。この表現で、主との関係を蔑ろにしていたので、ペリシテに破れ、サウル王朝が滅びたといっているわけです。

 ダビデはいつ、どのようにして神の箱の存在に気付いたのでしょうか。詳細は全く不明です。しかし、「おろそかにした」という言葉遣いに、神を無視する状態にいたことで心を痛めている様子を窺うことが出来ます。その神の箱を都に持って来ることは、ダビデが、イスラエルの国の真の基礎は何かということを、国の内外に示そうとしたのでしょう。

 それはまた、歴代誌の読者に向けて、その当時(紀元前4世紀中盤以降)、既に神の箱は失われていましたが、あらためて主との関係、エルサレム神殿における主礼拝について、重要なこととしてに考えるよう促すものでもあります。

 そこで、「エジプトのシホルからレボ・ハマトまで」(5節)、即ち、「ダンからベエルシェバまで」(士師記20章1節)より大きな、南から北まで、国中の人々を集め、神の箱をエルサレムに運び上げます(5節)。

 シホルとは、ナイル川の支流か、エジプトの川と呼ばれるイスラエルとエジプトの国境線を指すものと思われます。レボ・ハマトについては、ダマスコ北80kmにある平原ベカアの谷にある、現在のレブウエのことと言われます。

 イスラエルの全地からキルアト・エアリムに集められた民は、神の箱を新しい車に載せ、アビナダブの子ウザとアフヨに御者を命じ(7節)、すべての民には主の御前に力の限り歌わせ、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でさせました(8節)。まさに、鳴り物入りの都入りになるはずでした。

 ところが、運んでくる途中、キドンの麦打ち場で、御者の一人ウザが神に打たれて死ぬという事件が起こります(10節)。ここで、並行記事のサムエル記下6章では、ナコンの麦打ち場とされています。キドンが「投げ槍」という意味であることから、ウザが打たれた地名と考えられ、ナコンは麦打ち場を所有する人の名と考えると、矛盾ではなくなるかと思います。

 ウザが打たれたのを見たダビデは、冒頭の言葉(12節)のとおり、神を恐れて「どうして神の箱をわたしのところに迎えることができようか」と語り、もともと神の箱が置かれていたキルヤト・エアリムよりずっと遠くのガト人オベド・エドムの家に運ばせてしまいました(13節)。いったいどうしたことでしょうか。

 ウザが神に打たれたのは、牛がよろめいたので、箱を押さえようとして手を伸ばしたからだと説明されています(9,10節)。つまり、箱を守ろうとするウザの行為が打たれた原因だというのです。ただ、それでは箱が傷つき壊れるかもしれないけれども、手を出さずにただ見ていればよかったと言わんばかりです。

 しかしながら、実は、箱の運び方そのものに問題があったのです。それがそもそもの間違いでした。神の箱は、祭司、レビ人の肩に担がれて運ばれるように造られたのです(出エジプト記25章13節以下)。しかし、ダビデはそれを車に載せ、御者を頼んで牛に引かせました。新しい車に載せたのは、神への敬虔を示したつもりかも知れませんが、軽率な判断でした。

 というのは、車で運ぶというのは、ペリシテ人が用いた方法でした(サムエル記上6章)。異邦人にとって、牛は神を運ぶ使者です。だから、牛の像を造り、それに乗る神を拝むわけです。主なる神は、カナンの地の宗教的習慣に従うことを嫌われました(レビ記18章3節)。ですから、牛がよろめいたのは偶然ではなく、主が牛に運ばれるのを拒否されたのです。

 ただ、神の箱に触れたことで主の怒りを買ったというなら、そもそも、神の箱を新しい車に乗せ、牛にひかせてアビナダブの家を出発すること自体出来なかったでしょう。なぜその時に打たれないで、キドンの麦打ち場で打たれることになったのでしょうか。その理由は詳らかではありません。

 神の箱を運ぼうという時に、神に仕える祭司やレビ人たちは何をしていたのでしょうか。彼らが自分たちの責任をきちんと果たしていれば、ウザが打たれることはありませんでした。

 ダビデが恐れて箱を遠くに運ばせたのは、ウザが打たれた理由を悟ったからでしょう。箱に触れようとしてウザは打たれましたが、運搬方法にそもそもの原因があるということで、その方法を選んだダビデは、自分が神に打たれると考えたのではないでしょうか。ダビデは神を恐れました。鳴り物入りで行おうとした神の箱の都入りでしたが、お祭り気分は吹っ飛びました。

 しかるに神は、神の箱が運び込まれたガト人オベド・エドムの家を祝福されました(14節)。ダビデが自分のところに神の箱を持ち込んだ理由を聞き、異邦人ながら、まさしく神に対する畏れの心をもって神の箱を守り、神を礼拝したことでしょう。

 主イエスは、「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ福音書15章5節)と言われました。主につながり、御言葉を守る者に、主は豊かに実を結ばせてくださると約束しておられます。

 神の御言葉を聴き、その教えに従うことこそ、主イエスを愛し、主イエスにつながることです(同7,10節)。オベド・エドムはそのようにして祝福されたのです。私たちも、主イエスにつながり、主の御言葉にとどまることで豊かに実を結ぶ祝福に与らせていただきましょう。

 主よ、ダビデは神を畏れて御言葉に忠実に従うことを疎かにした結果、神を恐れなければならない事態になりました。一方、神を畏れて神の箱を守り、仕えたガト人オベド・エドムの家は祝福されました。私たちにも、主を畏れることを学ばせ、御言葉にたち、信仰によって歩むことが出来るように導いてください。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン