「ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。エッサイの子よ、あなたの味方です。平和がありますように。あなたに平和、あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたを助ける者。」 歴代誌上12章19節

 1節に「ダビデがまだキシュの子サウルを避けていなければならなかったとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである。彼らも戦いの補助要因として、勇士たちに連なっていた」とあります。ツィクラグは、ダビデがサウル王の手を逃れ、ペリシテの王アキシュを頼ったときに与えられた町でした(サムエル記上27章1節以下、6節)。

 そこに、ダビデを慕って人々が集まって来ました。彼らも、ダビデの勇士になりました。彼らは、サウルと同族ベニヤミン出身の者たちでした(2節)。サウルから逃げているダビデのもとに、ベニヤミンの勇士がやって来るとはどうしたことでしょう。しかも、「彼らは弓の名手で、右手でも左手でも石を投げ、矢を射ることができた」(2節)といいます。

 士師記20章16節に、ギブアの住民から選り抜かれた700人の兵士からなる部隊が皆左利きで、髪の毛一筋を狙って石を投げても、その的を外すことがなかったという記事があります。ギブアは、サウルが王として召され、王宮を置いた場所、即ち、都が置かれた場所です。いわばサウルの近衛兵ともいうべき左利きの石投げ、弓の名手たちが、外国に亡命しているダビデのもとにやって来たのです。

 サウルの死後、王位はダビデに渡されたと、10章14節に記されていましたが、王権の委譲は、ダビデがサウルを避けて隣国へ亡命生活をしているときに、このようなかたちで既に始まっていたということを示しているわけです。

 次は、ダビデが荒れ野の要害にいたとき、ガド族の勇士がやって来ました(9節)。「荒れ野の要害」は、ツィクラグに逃げ落ちる前にいた場所です。つまり、時間的な順序とは、異なっています。彼らは盾と槍を取ってカモシカのように速く走った一騎当千の勇将で、氾濫している川をものともしなかったとあります(9,15~16節)。

 さらにダビデと同族のユダ族(17節)、またマナセ族の名も挙げられます(20、21節)。そもそも、ダビデが要害にいたとき、同族のジフ人にその場所を密告され(サムエル記上23章19節、26章1節)、ペリシテへの亡命を決意したところがあります(同27章1節)。サウル王を恐れて、そうせざるを得なかったというところでしょう。

 明日をも知れないという逃亡・亡命の生活をしているときですから、そのような自分のもとに身を寄せてくる人々,勇士たちの存在というのは、ダビデにとってどんなに心強いものだったことでしょうか(23節参照)。

 1節に「補助要員」という言葉があり、スペアーとかサポーターというようなものを連想させますが、原語を直訳すれば、「助け」(アーザール:動詞・Qal分詞)です。救いといってもよいでしょう。自分ではどうすることも出来ないような状況から救い出されることを、聖書では助けというのです。ちょっと手を借りたというような意味合いではないのです。

 「助け」(アーザール)の名詞形は「エゼル」です。ベニヤミン族の頭が「アヒエゼル(兄弟の助け)」と3節に記されています。兄弟として助けるというのでしょう。そして、ガド族の頭が「エゼル」(10節)、まさに助けです。単なる偶然の一致ではありません。人の名も実に興味深いものです。この章には繰り返し「助け」が語られて、主要なテーマであることが分かります。

 そして、ユダ族のアマサイが、大変重要な言葉をダビデに告げます。それが冒頭の言葉(19節)です。これは、ダビデと彼を助ける者に平和(シャローム)があるようにという祈りです。そして、ダビデの神こそダビデを助ける者(アーザール)であるという宣言です。

 また、助けが与えられることとは、平和が与えられることであると教えられます。それは、神との関係が正しくなることです。神との関係においてもたらされる、真の平和です。神との平和を求めること、それが「義」を求めることです。先ず神の義を求め、神との関係が正されると、私と周りの人々の関係が平和になります(マタイ6章33節参照)。

 ちょうど十字架の関係、縦軸が神と私たちの架け橋、横軸が私と周りの人々の架け橋、その真ん中にキリストがいて、私たちを橋渡ししてくださる、真の仲介者となってくださるということです。

 そして、「ダビデと彼を助ける者に平和があるように」という祈りと、「ダビデの神こそダビデを助ける者である」という宣言は、アマサイに聖霊が降った結果、彼に与えられたものです(19節)。その意味では、これは単なるお世辞や美辞麗句、アマサイの願望の表明などではなく、アマサイに託された神の預言と考えることが出来ます。

 つまり、アマサイたちがダビデを助けるというより、ダビデを助ける者は神であられる、神がアマサイたちを通してダビデを助けられるのだから、ダビデは必ず平和に与ることが出来るという預言です。

 私たちには、救い主イエス・キリストが与えられています。キリストによって私たちは罪が赦され(コロサイ書2章13節)、神の子どもとされ(ヨハネ福音書1章12節)、永遠の命が授けられました(同3章16節)。そして、主イエスは私たちに、ご自分が持っておられた平和を与えてくださいます(同14章27節)。

 パウロが、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ書4章6,7節)と教えています。神を求める者に、神の平和が授けられるのです。

 パウロは、神を「平和の源なる神」と呼んでいます(ローマ書15章33節)。神のお与えくださる平和は、平和を創り出すことの出来る神の力、神の権威によって、キリスト・イエスを通してもたらされるのです。心に主の平和を頂き、主の御霊に満たされて、主のために働く者となりましょう。

 主よ、あなたは私たちのために助ける者を用意し、平和の内に力強く歩むことが出来るようにして下さり、感謝致します。何より、主ご自身が助ける者であられます。その御手に依り頼み、導きに従って歩みます。私たちを平和を創り出す御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン