「ダビデは次第に勢力を増し、万軍の主は彼と共におられた。」 歴代誌上11章9節

 サウルの死後、イスラエルの民が、ヘブロンにいたダビデのもとに集まりました(1節、サムエル記下5章1節)。そして、主の御前に契約を結んでダビデに油を注ぎ、全イスラエルの王とします(3節)。

 サムエル記は、サウルの死後の出来事をもう少し詳しく記しています。ダビデはヘブロンでユダ族の王となりましたが、全イスラエルはサウルの4男イシュ・ボシェトを王としました(サムエル記下2章)。ところが、イシュ・ボシェトは同族の家臣に暗殺されました(同4章)。その後、ダビデが全イスラエルの王となったのです(同5章)。

 歴代誌は、サウルの死と擁立を直結させることで(10章13,14節、11章以下)、ダビデの主に背き、主の言葉を守らなかったサウル王がペリシテとの戦いで殺され、イスラエルが崩壊する危機を救う者として、エッサイの子ダビデが主によって選び出されたということを、印象的に表現しているかたちです。

 ヘブロンで全イスラエルの王となったダビデは、難攻不落のエブス人の町、シオンの要害を攻略して、そこに移り住みました(4節以下)。そこで、その町がダビデの町と呼ばれます(7節)。サムエル記下5章の記述によれば、ギホンと呼ばれる泉に水汲みに降りるトンネルから侵入して、陥落させたようです。

 ダビデの町といえば、新約聖書において、彼の生まれ故郷ベツレヘムを指して用いられますが(ルカ2章4,11節)、旧約聖書にはその用例はありません。今日、ベツレヘムの西側に「ダビデの町」と呼ばれるところがありますが、いつごろからそのように呼ばれているのかは不明です。

 ダビデは、エルサレムの町の周囲を城壁で固めました。それは、新たに城壁を築いたというより、改築したというべきでしょう。その他の部分は、真っ先に町に攻め上って軍の頭となったヨアブが修復しました(6,8節)。サムエル記には、ティルスの王ヒラムが使節を送り、ダビデの王宮を建てたことが記されていました(サムエル記下5章11,12節)。

 ダビデの周りには、名のある勇士たちが大勢集まりました(10節以下、サムエル記下23章8節以下)。彼らはダビデが王として国を治めることに協力します。

 そこには、ダビデがベツレヘムの井戸の水が飲みたいと言ったとき、敵の囲みを突破してベツレヘムの井戸の水を汲み、再び敵陣を突破して戻って来るという、まさしく献身的な行動を取った勇士たちもいます(15節以下、サムエル記下23章16節)。

 ここで、ダビデがアドラムの洞窟にいたときというのは(15節)、サウルの手を逃れて逃避行をしていたときのことでしょう(サムエル記上22章1節)。そのときに、三十人の勇士の中の三人が、ダビデのもとに来たということになります。

 サムエル記には「困窮している者、負債のある者、不満のある者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた」(同22章2節)と記されています。この背景には、保身のためにダビデを追い回し、王としての務めを果たさないサウルに対する不満、失望があったわけです。

 だから、ダビデを王とするとき、「これまで、サウルが王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした」(2節)とイスラエルの民は告げたのです。それは、逃避行のさなか、イスラエルの民のことを思って行動をするダビデに感心していた人々が、少なからずいたということでしょう(同23章1節以下など参照)。

 また、ダビデの信仰を上げることも出来ます。ダビデはまっすぐ神を求め、主に従いました。勿論、完璧に清く正しく生きたというのではありませんが、罪を指摘されると、誤魔化さずに罪を認めて悔い改めました(サムエル記下12章13節など参照)。

 ただ、冒頭の言葉(9節)の通り、ダビデが勢力を増したのは、万軍の主がダビデと共におられたからだと言われます。「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバオート)は、歴代誌では用例が少なく(他に17章7,14節の3回だけ)、それらは資料(サムエル記上5章9節)をそのまま採用した箇所と考えられます。

 ダビデがエルサレムに神殿を建てたいと願ったとき(サムエル記下7章1節以下)、主は預言者ナタンを通して、「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」(同9節)と約束しておられました。その約束を主が忠実に実行されたわけです。

 イスラエルの主は、眠ることもまどろむこともなく、常に見守ってくださる方であり(詩編121編4節)、杖と鞭で彼に道を教え、敵に囲まれて四面楚歌という状態でも、食卓を共にしてくださるので、ダビデの杯はいつも喜びと平安で満ち溢れているのです(同23編4,5節)。

 翻って、主は私たちと共にいてくださるのでしょうか。答えは「イエス」です。主イエスは「インマヌエル」と唱えられるお方と言われます(マタイ1章23節)。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。主イエスは人となってこの世に来られ、「神が私たちとご一緒だ」ということを、身をもってお示しくださったのです。

 主イエスは十字架に死なれましたが、三日目に甦られました(第一コリント15章3,4節)。今も、そしてとこしえまで生きておられるお方です。だから、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と言われたのです。

 エフェソ書2章4~6節には「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって,罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」と記されています。

 憐れみ豊かな主を信じて絶えず御名を呼び、新しい歌をもって主をたたえ、日々主の御言葉に耳を傾け、真理を悟り、御旨に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御子キリストをこの世に遣わし、十字架で贖いの業を成し遂げ、私たちの罪を赦し、神の子とする道を開いてくださいました。聖霊が私たちを神の宮として住まわれ、常に共にいて、御心に適う執り成しをし、万事を益に変えてくださいます。絶えずその大いなる御愛に感謝し、御言葉に従って歩む者とならせてください。福音の交わりが豊かにされますように。 アーメン