「レビの家系の長である詠唱者たちは、祭司室にとどまり、他の務めを免除されていた。彼らは昼も夜も果たすべき務めを持っていたからである。」 歴代誌上9章33節

 9章前半には、バビロン捕囚後、エルサレムに住んだ人々の系図が記されています。これは、ネヘミヤ記11章と共通するところです。そこには、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人がいました(2節)。

 3節で、イスラエルの人々とは、ユダ、ベニヤミン、エフライムとマナセ、各部族の一部だと言われています。ただ、エフライムとマナセという北イスラエルの部族が帰還してエルサレムに住むようになったという記事は、これ以外にはありません。並行箇所と目されるネヘミヤ記11章3節以下にも、エフライム、マナセの記述はありません。

 これは、ネヘミヤがエフライム、マナセを削ったというより、歴代誌がこの二つを書き加えたものだと考えられます。つまり、エフライム、マナセ各部族の一部がエルサレムに住んでいたというのは歴史的事実ではなく、新生イスラエルは、南ユダ王国だけでなく、北のマナセ、エフライムをも包含する全イスラエルを代表するものだという表現だと思われます。

 ユダ族(4節以下)、ベニヤミン族(7節以下)、祭司(10節以下)、レビ人(14節以下)の系図はありますが、エフライム、マナセのものは存在しません。これも、3節の捕囚から帰還してエルサレムに住んだとされるユダとベニヤミンに加え、後からエフライムとマナセが追加されたと考える根拠です。

 4節以下にユダの家系、7節以下にベニヤミンの家系を記した後、10節以下に祭司の家系、14節以下には、レビ人の系図が出ていて、17節以下には神殿の門衛の働き、そして、33節には詠唱者のことが記されています。捕囚後のエルサレムの住民が大事にしたのは、神殿での礼拝だと示しているような扱い方です。

 19節に「幕屋の入り口を守る者」という言葉が出て来ますが、この表現は、ソロモンの神殿が完成する前の時代を示しています。22節には「ダビデと先見者サムエルが彼らにこの仕事を任せた」という言葉も出て来ます。つまり、ダビデ王の時代のレビ人の職務が、このように記されているわけです(26章2節参照)。

 そうすることで、バビロン捕囚によって一旦途切れてしまった神殿の務めが、捕囚後にあらためてしっかりと引き継がれたこと、その役割は、ダビデ王の時代から連綿と続いているものであるということを、ここに示そうとしているようです。

 さらに、35節以下は、8章29節以下と寸分違わないキシュの子サウルにまつわるベニヤミン族の系図が、再び登場して来ます。冗長ではありますが、これは、10章のサウルの物語に続く序章としての役目を果たしています。

 ところで、冒頭の言葉(33節)の「詠唱者」について、それに任ぜられた人々の名は、6章16節以下に既に記されていました。今日の箇所には、「レビ人の家系の長である詠唱者」とあります。

 詠唱者すべてが「家系の長」と考えてよいかどうか、とても微妙なところでしょう。ですが、ともかく詠唱者に任ぜられた家系の長たちは、昼も夜も果たすべき務め、即ち、神の御前に賛美をささげるという務めを持っていました。

 だから、「祭司室にとどまり、他の務めを免除されていた。彼らは昼も夜も果たすべき努めを持っていたからである」と言われます。つまり、門衛として幕屋を警護したり、祭司室や宝物庫の管理をする仕事や(17節以下)、祭儀用具に責任を持つような仕事(28節以下)、その他の雑用などが一切免除されたわけです。

 余談ながら、「(昼も夜も果たすべき)努め」とは、「仕事、公務」(メラーカー)という言葉なので、それが「努め」となっているのは、誤植でしょう(2012年に求めたA5版聖書)。引照つき聖書や小型聖書などでは、正しく「務め」と記されていました。

 話を戻して、詠唱者が歌ってさえいれば、楽器を奏でてさえいれば、他の仕事をしなくてもいいというようなことではないでしょう。むしろ、神の御前に楽を奏し、歌を歌って賛美をささげる務めが、何にもまして最も重要なものとされていたということです。「レビの家系の長」たちが詠唱者に任ぜられているというのも、それを示しているといってよいでしょう。

 詠唱者たちは、昼も夜も絶やすことなくその務めを果たし続けました。交代でその務めに当たっていたわけです。即ちそれは、詠唱者たちが賛美したいときに、したいように賛美するというものではありません。務めに当たるとき、自分が今どのような心境であろうと、どのような境遇であろうと、いつでも主を賛美するよう務めに任ぜられているのです。

 確かに、私たちがどのようにして神の子とされたのかということを考えると、すべてが感謝、すべてが賛美となるでしょう。しかし、現実はなかなか厳しいです。歌う気持ちになれない。感謝の念が湧いてくるような境遇じゃないということもあるでしょう。心を込めて、心から主を讃えるのでなければ、賛美ではないという考え方もあるでしょう。

 けれども、ヘブライ書13章15節に「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」と記されています。「賛美のいけにえ」とは、賛美する者が犠牲を払って献げるものであるという表現ということが出来ます。

 歌う気になれなくても、感謝する心境でなくても、むしろ、心に痛みを覚えているような状況でも、神は賛美されるべきお方だから賛美する、感謝すべきお方だから感謝する、そのときに出来る最高の賛美を心を込めてささげるということです。

 それにはどうすればよいのでしょうか。賛美を与えてくださるのは聖霊です。聖霊に満たされ、常に聖霊の導きに与ることです。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ書5章18,19節)と言われる通りです。

 今日も、限りなく聖霊をお与えくださる主を仰ぎ、御霊の満たしを求めましょう(ヨハネ3章34節)。主は求める者に聖霊を満たし与えてくださいます(ルカ11章13節)。そして、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する者としていただきましょう(第一テサロニケ5章16~18節)。

 主よ、御名を賛美します。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめ讃えます。命のある限り、あなたを讃え、手を高く上げ、御名によって祈ります。私の魂は満ち足りました。床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ず私を助けてくださるからです。 アーメン