「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。メリブ・バアルにはミカが生まれた。」 歴代誌上8章34節

 8章には、7章6節以下に記されている「ベニヤミンの子孫」とは別の、「ベニヤミンの子孫」のリストがあります。ベニヤミンの長男ベラ以外は、全く違う名が列挙されています。そして、双方とも、創世記46章21節のベニヤミンの子らのリストと一致しません。どう考えてよいのか分かりませんが、違いを推理してみるのも一興でしょう。

 この箇所で、ユダ、レビを除く他の部族に比べて大きく取り扱われています。また、最後にベニヤミンを扱っているのは、ヤコブ=イスラエルの12人の子らの中で最後に生まれたものだからでしょう。そして、最初にユダ、真ん中でレビ、そして最後にベニヤミンを扱うことで、全部族を囲みこむユダ-レビ-ベニヤミンという枠が完結します。

 ベニヤミン族の中でサウルの家系が突出して記されています。ベニヤミン族出身のキシュの子サウルは(33節)、イスラエルで最初の王になりましたが(サムエル記上10章)、主の言葉に従わなかったために、王位から退けられ、ダビデに道を譲らねばなりませんでした(同16章)。

 しかし、一端握った王権を手放すのを嫌ったサウルは、出陣の度に手柄を立てるダビデが自分の王位を脅かすと考えて(同18章8節)、戦士の長に任じ(同5節)、娘ミカルの婿として迎えていましたが(同20節以下)、ダビデを殺すよう全家臣に命じます(同19章1節)。そして、逃亡するダビデを追って、執拗にその命を狙い続けました(同22章以下)。

 しかし、それを果すことが出来ないうちに、ギルボアにおけるペリシテとの戦い(同28章以下)で命を落としてしまいます(同31章3,4節)。その上、愛息ヨナタンも戦死しました(同2節)。

 ヨナタンは信仰心篤く、逃亡中のダビデを支えた素晴らしい人格の持ち主ですが(同14章6節、18章1,3節、19章1節以下、20章1節以下、23章18節以下)、父の罪の呪いを受けた形となりました(出エジプト記20章5節参照)。

 これらのことは、新しくユダヤの王となる赤ん坊がベツレヘムに生まれたというニュースを聞いたヘロデ大王が、ベツレヘム周辺の2歳以下の男児を皆殺しにして、主イエスを亡き者としようとしたこと、けれども、神に守られて、結局果たせなかったということにも通じているようです(マタイ福音書2章)。

 主イエスは、ダビデの子孫として、この世においでになりました(マタイ1章1節、ローマ書1章3節など)。そして、「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)と語られ、十字架で死なれました。因みに、十字架に掲げられた罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました(同19章19節)。

 主イエスの前に来た者は、神の栄光を盗み、御子の命を奪おうとする強盗でした(同10章8節)。しかし、真の王は、よい羊飼いとして、「羊」(私たち人間のこと)のために命を捨てます。それは、羊が命を受け、しかも豊かに受けるためです(同10章10節)。

 羊が命を受けられるのは、ただ神の憐れみ、神の恵みです。しかもそれは、御子イエスの命とひきかえに与えられた、とても重い恵みです。量ることが出来ないほどの豊かな恵みです(エフェソ書2章4節以下、8節)。

 サウルが命を落とし。その子ヨナタンも共に戦死しましたが、ただ一人、ヨナタンの子メリブ・バアル(「バアル(主)に愛される者」の意、サムエル記下9章6節ではメフィボシェト=「恥を振りまく者」の意)だけは、ダビデとヨナタンとの契約のゆえに守られました(サムエル記上20章15,16節参照)。

 メリブ・バアルは、いつもダビデと一緒に食卓を囲む者とされました(サムエル記下9章7,13節)。冒頭の言葉(34節)にメリブ・バアルの子ミカの名が記され、続く35節以下にその子孫の名が列挙されています。そこに、神の憐れみを感じます。

 というのは、ダビデとヨナタンとの間に交わされた契約は、ダビデの子らがダビデのゆえに祝福に与り続ける間、有効に機能しているということを、その系図が示しているからです。そしてそれは、ダビデとヨナタンとの契約だからというだけでなく、メリブ・バアルがダビデの前に全く謙遜に歩んだからです。

 召使いツィバに欺かれるようなことがあり(サムエル記下16章3節)、ダビデはツィバの讒言を真に受けてしまいますが(同19章26,30節)、メリブ・バアルの謙遜な態度は終始一貫、ダビデの前に生涯変わることがありませんでした(同9章8節、19章27~29,31節)。主なる神は、心の謙った者を決して軽しめられはしないのです(詩編51編19節など)。

 私たちも主イエスの深い憐れみにより、主と共に食卓を囲むという、主との親しい交わりに加えて頂いた者として(黙示録3章20節、第一コリント1章9節、第一ヨハネ1章3節)、常に主の御前に謙り、絶えず御言葉に耳を傾けながら、感謝をもって従順に歩ませて頂きましょう。

 主よ、今日も御言葉と祈りの交わりに導いてくださり、感謝致します。恵みに与って喜びに満たされ、隣人にその恵みを分かち合う福音の交わりが前進しますように。御霊の満たしと導きに常に与らせてください。御心が行われますように。私たちを試練に遭わせないで、悪からもお守りください。 アーメン