「エフライムの娘はシェエラ、彼女は上ベト・ホロン、下ベト・ホロン、ウゼン・シェエラを築いた。」 歴代誌上7章24節

 7章には、ユダとレビを除く、約束の地(ヨルダン川の西)に嗣業の地を得たイスラエル諸部族の系図が記されています。ただし、シメオン、ダン、ゼブルン各部族の記載はありません。その根拠は定かではありませんが、12部族の中でその存在が軽く見られていたということなのでしょうか。

 20節以下に、エフライムの子孫の系図が記されています。エフライムには、シュテラのほか(20節)、エゼルとエルアドという息子があり、二人はガトに下り、家畜を奪おうとして、そこで殺されてしまったと言われます(21節)。民数記では、彼らの存在を確認することが出来ません。その不名誉を、民数記の記者たちが書き残したくなかったということでしょうか。

 しかし、その二人のためにエフライムは長い喪に服しました(22節)。子どもたちが盗みを働こうとしたこと、そのゆえに殺されたということ、この二重の悲しみがエフライムを襲ったわけです。彼は、兄弟たちの慰問を受けてようやく立ち上がることが出来ました(22節)。

 ただ、ヨセフの子エフライムは、兄マナセと共にエジプトで生まれ(創世記41章52節)、その子らは当然エジプトの都に住んでいたはずです(同50章22,23節参照)。ガトはペリシテ人の町で、そこに下って行ったというのは、彼らがパレスティナに住まいを持っているかのような表現です。

 また、その理由が、家畜を奪うためということですが、エジプトの宰相となっていたヨセフの孫たちに、そうする必要性があったとは思えず、仮にそれがあったとして、彼らだけで外国の町に出かけて行くということも考え難く、このところは少々理解に苦しむところではあります。

 話を元に戻して、エフライムが立ち直った時に与えられた子に、「ベリア」という名をつけました(23節)。それは「災い」という意味です。二人の子を彼らの罪のために失うという辛い経験を忘れないというのでしょうか。だから自分は不幸だというのでしょうか。

 むしろ、ヤベツのときと同じように(4章9節)、こんな災いが起こり、心ふさがれたようなときに、神は祝福をもって臨まれた、不幸を恵みに変えてくださったということかも知れません。

 ベリアの子孫に、ノン(民数記など:ヌン)の子ヨシュアが生まれます(27節)。このヨシュアは、祭司エルアザルと共にモーセの後継者となり(民数記27章12節以下、申命記31章、ヨシュア記1章)、イスラエルの民を約束の地カナンに導きました。

 ヨシュア記1章6節以下に「強く、雄々しくあれ。強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたはその行く先々で栄え、成功する」とあります。

 主なる神はヨシュアに、律法の言葉を口ずさみ、それを忠実に守ることに強く雄々しくあるように求められました。そうして「あなたはその行く先々で成功する」と約束されています。

 冒頭の言葉(24節)に、エフライムの娘シェエラの記事があります。彼女が上下のベト・ホロンとウゼン・シェエラの町を築いたというのです。これらの町はエフライム山地の南、交通の要衝にあり、後にソロモン王がここに堅固な要塞を築きます(列王記上9章17節以下)。

 ただし、エフライムの娘というのが、文字通りの娘であるならば、21節と同様、彼女がエジプトからやって来て、カナンの地に町を築くというのは、あり得ないことでしょう。ヨシュア以降の世代に、エフライム族に属するシェエラという娘がいたというように読みたいと思います。

 それにしても、女性の業績がこのように記されるのは、特別なことです。女政治家かあるいは女実業家の走りでしょうか。殺された二人の兄弟や、意気消沈して長く喪に服していた父に代わって働いたということでしょうか。

 いずれにせよ、災いを転じて福となし、万事を益とされる神の恵み、憐れみがここに示されているのではないでしょうか。この神の恵みの前に、男も女もなく、奴隷も自由人もなく、ユダヤ人もギリシア人もありません(ガラテヤ書3章28節)。何らの差別なく、神の恵みを受けることが出来ますし、神はどのような人も用いることが出来るのです。

 生まれつき目の見えなかった人が主イエスと出会い、目を開いて頂きました(ヨハネ9章1節以下)。けれども、その日が安息日だったということで、ファリサイ派の人々に咎められ、元盲人との間で問答が繰り返されます(同13節以下)。

 その問答の最後に、「お前は全く罪の中に生まれたのに、われわれに教えようというのか」(同34節)とファリサイ派の人々が語り、元盲人を外に追い出しました。それは、元盲人に議論で打ち負かされたファリサイ派の人々が、自分たちの体面のためにとった行動です。

 主イエスと出会い、神の恵みを受けると、見えなかった者が見える者とされます(同39節)。それは、真実が見えていなかったことに気づかされるということでもあります。

 主イエスを愛してその御言葉を絶えず口ずさみ、思い起こし、恵みを心に留めましょう。主は私たちの耳を開き、目を開き、御旨を悟らせてくださいます。そして、御言葉によって知らされた真理は、私たちを自由にするのです(同8章31,32節)。

 主よ、取るに足りない私たち、いえ、罪の中に主に敵対していた私にも目を留め、恵みと慈しみをもって導き助けてくださいますこと、本当に感謝です。いつも、主の慈しみの御手の下におらせてください。耳を開いて御言葉を聞かせてください。目が開かれて主の御業を拝することが出来ますように。 アーメン