「ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、『わたしは苦しんで産んだから』と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。」 歴代誌上4章9節

 4章には、2章に記されていたものとは別の、もう一つのユダ族の系図が記されています。2節のショバルの子らの名前が2章52節と異なっていることで、ここに別の系図として記録されたのでしょう。

 3節で「エタムの父の子は」ということは、自分に戻って来るので、「兄弟は」で済ませられそうですが、原文は「エタムの父は」(アビー・エーターム)となっており(岩波訳参照)、一方70人訳は「エタムの子らは」(フイオイ・アイターム)という言葉遣いになっています(口語訳参照)。新共同訳、新改訳は双方を合体させた訳というわけです。

 ヘブライ語原文のとおりにエタムの父が3人もいるなどというのは、通常あり得ないことです。70人訳、口語訳のように受け取るべきでしょう。ただ、フルの三男ハレフの家系(2章51節)と考えて、「ベト・ガデルの父ハレフの子は次の通りである。イズレエル云々」とする注解者もいます。

 この系図の中に、ヤベツという人物にまつわる小さな物語が記されています(9,10節)。10節の「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」という祈りは、それを祈ったヤベツの名をとって「ヤベツの祈り」と言われています。

 20年ほど前、ブルース・ウィルキンソンが、この祈りに関する小さい書籍を出版したところ、全米で短期間に一千万部を売り上げるという反響を生み、日本語でもそれが出版されました。その後、様々な牧師、伝道者が、ある人はメディアを通じて、この祈りについて語り、出版しました。

 「ヤベツの祈り」は、ユダの系図の中で紹介されていますが(4章1節以下)、ヤベツの父は誰なのか、また、彼の子どもは誰なのか、記されてはいません。ある方は、イスラエル人でさえないと結論しています。

 2章55節に「ヤベツ」という地名があり、そこには「セフェルの氏族」が住んでいたとされています。口語訳、新改訳、岩波訳は、「セフェル」を固有名詞ではなく一般名詞として「書記(たち)」と訳しています。岩波訳の脚注に「(ヤベツとは)盆地の意か」と記されています。地名との関連もあって、ユダの系図の中におかれているのでしょうか。

 いずれにしても、創世記において、アブラハムの前に姿を現したメルキゼデクのように(創世記14章18~20節)、ただ一度突然現れて、そして忽然と去りました。ともかく、9,10節に僅か数行コメントされただけで、この前にも後にも、全く登場して来ないのです。

 冒頭の言葉(9節)によれば、母親が「わたしは苦しんで(オーツェブ)産んだから」ということで、文字順を入れ替えて「ヤベツ」と名付けたそうです。どのような苦しみであるか、定かではありませんが、出産の苦しみは死ぬほどのものだと聞きます。だからといって、それを子どもに思い知らせるかのような名付けを行うだろうかと思います。

 確かに主なる神は、出産を苦しみとして人にお与えになりました(創世記3章16節)。けれども、苦しんで産んだ後、その子どもの顔を見ると、苦しみを忘れてしまうとも聞きます。主イエスもそのことを引いて、主イエスの受難、離別の悲しみが、喜びに変えられることを説かれました(ヨハネ16章21~22節)。

 ヤコブの愛妻ラケルが二人目の息子を出産するとき、それは大変な難産で、結局ラケルは命を落としてしまいます。ラケルはその子を「ベン・オニ(苦しみの子)」と名付けました。彼女はベツレヘムの傍らに葬られました(創世記35章16節以下)。ベツレヘムはユダ族のダビデの町です。

 しかし、ラケルの二人目の息子「ベン・オニ」は、父ヤコブから特別に愛されました。ヤコブは彼を「ベニヤミン(幸いの子)」と呼んでいます。「苦しみの子」ではかわいそうだという解釈もありますが、母ラケルは苦しみの果て命を落としたけれども、それによって幸いが与えられた、祝福が生み出されたのだと受け取ることも出来ます。

 ベニヤミンは兄弟でただ一人、イスラエルの地で生まれました。他の兄弟は、ヤコブの母ラケルの故郷、ハランの地で生まれたのです(創世記29章31節以下)。イスラエル最初の王がベニヤミン族から選ばれたことも(サムエル記上10章20節以下)、12部族の中で特別な地位を占めていることを示します。

 これは、ヤベツが兄弟たちの中で最も尊敬されていたという言葉にも、重なるところではないでしょうか。そして、ヤベツが最も尊敬されたのは、苦しみを乗り越えて祝福されたことでしょう。その祝福の背後には、「ヤベツの祈り」がありました。その祈りが聞かれて、ヤベツは祝福を受けたのです。

 しかし、その祈りはヤベツの祈りというよりも、ヤベツに与えられた祈り、教えられた祈りでしょう。ヤベツに祈りを教えたのは、母親ではないかと思います。

 そうしたことを考え合わせると、ヤベツの出産のときに、たとえば夫と死別するといった苦しみ、深い痛みを味わい、失意のどん底にいたけれども、そこで主に祈りを捧げて、神の助けに与り、無事に出産を終えることが出来たので、その恵み、主の計らいを忘れないために、あえて苦しみを意味する「ヤベツ」という名をつけたのかも知れません。

 そのとき、ヤベツの母を祈りに導いたのは、聖霊なる神でしょう。そして、聖霊がヤベツを祈りに導き、そして今これを読み、学んでいる私たちをも、祈りに導いてくださるのです。

 聖霊ご自身が、産みの苦しみを味わっている私たちのために言葉に表せない「呻き」(ステナグモス)をもって執り成してくださいます(ローマ8章22~23,26節)。言葉で表現できない深く強い苦しみの感情が、ここに「呻き」として表現されているわけです。

 因みに、ここに用いられている「ステナグモス」があと一度、使徒言行録7章34節に用いられて「嘆き」と訳されています。また、動詞形「ステナゾー」がローマ書8章23節で「(霊の初穂をいただいているわたしたちも)うめきながら」と訳され、福音書では一箇所マルコ7章34節で主イエスが「(天を仰いで)深く息をつき」と訳されています。

 父なる神は、どう祈るべきかを知らない弱い私たちのために呻きをもって執り成される聖霊の祈りに応えられます。神は,聖霊の思いが何であるかを知っておられるからです(ローマ8章27節)。だから、万事が益となるように共に働き、どんなマイナスもプラスにしてくださるのです(同8章28節)。

 これからも、ヤベツの祈りの心をもって進んで参りましょう。そして主の祝福に共に与らせていただきましょう。

 主よ、苦しみの中で生まれたヤベツは、祈りに導かれて、豊かな祝福に与りました。どんなときにも感謝をもって祈り、インマヌエルの主の恵みと平安に与らせてください。御心がこの地の上になされますように。その器として、私たちを用いてください。そして、御名が崇められますように。 アーメン!