「ヨラムはイエフを見ると、『イエフ、道中無事だったか』と尋ねたが、イエフは答えた。『あなたの母イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か。』」 列王記下9章22節

 ヨルダン川東部ギレアドの地、ラモト・ギレアドの領有を巡り、北イスラエルの王ヨラムの父アハブの時代から、隣国アラムとの間に戦争が断続的に行われていました(列王記上22章3節以下)。ヨラムはその戦いで傷つき、戦線を離れてイズレエルで療養しておりました(列王記下8章28~29節)。

 ときに、イスラエルの将軍イエフが、軍勢を率いてイズレエルにやって来ました(17節以下)。彼は、密かに預言者エリシャの遣わした従者によって油注がれ、ヨラムに代わって王となり、アハブの家を撃つよう命じられていました(6節以下)。

 将軍イエフを出迎えたヨラムは、彼が軍勢を率いて戻ってきたので、アラムとの戦いがどうなったのか気になり、冒頭の言葉(22節)のとおり、「イエフ、道中無事だったか」と尋ねます。「道中無事だったか」という言葉の原語は「シャローム」の一語です。口語訳は「平安ですか」、新改訳は「元気か」と訳しています。

 この箇所では、通常の挨拶ではなく、アラムとの戦いにおいて平和を獲得したのか、つまりラモト・ギレアドを巡る戦いに勝ったのかと問うているのではないでしょうか。先に2度騎兵をやってそれを尋ねさせたのに、応答がなかったということで、王自ら戦車を用意してイエフのもとに出向き、同じ問いをしているわけです。

 戻って来た将軍に対して、王自身が車を走らせて出迎えるというのは、およそ尋常なものではありません。イスラエルは無事なのか、この戦いに勝利したのかということが、いかに真剣な問いであったかということです。

 であれば、今現在、ヨラム自身のうちに「シャローム」、平安がない、不安と恐れの中にあるのだということをを窺い知ることが出来ます。つまり、無事だ、勝利したという福音・グッドニュースを聞きたい、それによって平安を得たいと考えているのです。

 その問いに対して、イエフは「イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か」とヨラムに答えました。その言葉遣いは、およそ王とその家臣の会話とは思えません。

 イエフは、隣国との関係ではなく、主なる神との関係において「シャローム」を考えていました。主との間に真の平和がなければ意味がない。主のシャロームを破壊する者が国の中にいるなら、隣国に勝利したとしてもそれは無益だというわけです。真のシャロームを獲得するには、先ず、皇太后イゼベルの姦淫とまじないをやめさせなければなりません。

 イエフの意図を悟ったヨラムは、同行して来たユダの王アハズヤに「アハズヤよ、裏切りだ」(23節)と叫び、慌てて逃げ出しますが、イエフに射殺され(24節)、ナボトの畑に投げ捨てられます(25節)。それは、ヨラムの父アハブが、ナボトから奪い取ったもので、エリヤがアハブに告げていた裁きの言葉どおりです(26節、列王記上21章19節以下)。

 また、アハブの娘アタルヤを母に持つアハズヤも、逃げる戦車の中で傷を負い、メギドで命を落としました(27節)。さらに、ヨラムの母イゼベルも、偶像礼拝の罪を刈り取ることになりました(30節以下)。繰り返しエリヤによって断罪されていたのに、主の御前に悔い改めることをしなかったアハブの家系は、預言通りに滅ぼされてしまいました。

 どうすれば、真の平和を築くことが出来るのでしょうか。それは、イエフが語ったように、姦淫とまじないをやめること、それにかわって、先ず神の国と神の義とを求めることです(マタイ6章33節)。何よりも神を第一とすべきなのです。

 神の国を求めるとは、神に御支配頂くこと、神にお委ねすることです。神の支配のもとにある国、それが神の国です。心の中心に主を迎え、家庭や職場、学校、地域が神の御支配に与るように求めるのです。

 神の義とは、神との正しい関係です。絶えず神を崇め、神の前に謙ることです。神の義を求めるとは、神との関係を正しくしたいと願うこと、罪の赦しを求め、主の救いに与ることです。

 主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。主イエスが私たちのために死なれ、神との関係を正しくしてくださいました。そしてキリストは、私たちに「アバ父よ」(ローマ書8章15節)と呼ぶ聖霊をお与えくださいました。私たちと神との正しい関係とは、神が私たちの真の父親となられ、私たちが真の神の子になることです。

 神と私たちとの関係が正しくなり、神が私たちと共に住み、私たちを御支配くださるとき、私たちに乏しいことはありません。必要なものはみな、加えて与えられると約束されているからです(マタイ6章33節)。こうして、神との関係がシャロームになるならば、隣国との関係においても神がシャロームをお与えくださるでしょう。

 キリストは、十字架を通して私たちを神と和解させ、十字架によってユダヤ人と異邦人とを一つに結んでくださいました。十字架の縦の棒は神と私たちを結ぶ架け橋、横の棒は私たちお互いを結ぶ架け橋です。そして、その中心にキリストがおられ、私たちを一つにしてくださるのです。

 主の招きに応え、主との真の平和に与るため、何よりもまず、神の国と神の義とを求めて主の御前に進みましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。導きに従って歩みましょう。

 主よ、御言葉と祈りを通して、また、信仰の交わりを通して、希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。平和の源である神が、常に私たち一同と共におられますように。 アーメン