「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる。生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです。」 サムエル記下15章21節

 ダビデは、軍の司令官ヨアブの言葉を受け入れて、アブサロムの帰国を許しました(14章21節)。そして2年を待たされましたが、アブサロムはダビデの前に出ることを許されます(同33節)。王子としての立場、地位を回復することが出来たのです。

 14章25節には、特にアブサロムの美しさに触れられています。また、軍の司令官ヨアブの肩入れもあります。それらのことから、次第にイスラエルの民は、アブサロムがダビデ王の正当な後継者になると期待するようになったのではないでしょうか。

 しかし、一連のダビデの態度から、このままの成り行きで自分に王位を譲るはずはないと悟ったアブサロムは、時間をかけて父から王位を奪い取る計画を立てました。先ず、自分のために戦車と馬、50人の護衛兵を整えます(1節)。それから、城門の傍らに立って、王に裁定を求めてやってくる人々の心をつかむために腐心します(2節以下)。

 やがて多くの人々の心をつかんだアブサロムは、40歳を機にヘブロンに向かい、旗揚げの用意をします(7節以下)。なお、「40歳になった年の終わりに」を口語訳、新改訳、岩波訳などは、70人訳、ペシタ訳に従って「4年後に」としています。新共同訳はマソラ本文に従っているのですが、しかし、「4年後に」とする方がよさそうです。

 というのは、ダビデがヘブロンでユダの王となり(2章3,節)、その後イスラエル全土の王となって、合計40年王位にありました(5章3~5節)。アブサロムはヘブロンで生まれた3番目の息子です(3章2,3節)。とすると、アブサロムが40歳の年の終わりにクーデターを起こした時、ダビデは既に王位になかったのではないかと考えられるからです。

 アブサロムがイスラエルの民の心をつかむと共に(2~6節)、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルを参謀として迎えることにも成功しました(12節)。そこで、ついに父ダビデに対して反旗を翻したのです。

 アヒトフェルの子エリアムは、ダビデの勇士の一人に数えられています(23章34節)。また、ダビデが妻として迎えたバト・シェバは、エリアムの娘です(11章3節)。つまり、アヒトフェルは、ダビデの義祖父にもなったわけです。そのような人物が、ダビデを離れて、アブサロムにつくようになったのです。

 それを皮切りに、アブサロムのもとに集まる民の数が増えていったということは(12節)、ダビデが年齢を重ねて代替わりの時が近づいていることに加え、彼の犯した罪や、ダビデ家内の騒動が国内に様々な影を落とし、それを正しく裁くことの出来ないダビデから、心が離れたという人々もかなりいたということなのでしょう。

 けれども、ダビデには頼りになる友も少なくありませんでした。「友の振りをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある」(箴言18章24節)という言葉があるように、息子アブサロムに背かれたダビデを、命がけで守ろうとする友人たちがいるのです。その一人が、ガト人イタイです。

 ガトは隣国ペリシテの都です。イタイは、ダビデに雇われた傭兵部隊の隊長です(18章2節参照)。昔の王は、国内の政治状況に左右されない外国人を個人的な護衛兵として雇うということがあったのです。

 ダビデがサウルに追われて、ガトに逃避していたことがあります(サムエル記上27章)。サウルの死後、ダビデはユダの王となり(サムエル記下2章)、やがて全イスラエルの王となりました(5章1節以下)。その後、攻め上って来たペリシテを返り討ちにし、彼らを討ち滅ぼしました(同17節以下)。

 エルサレムを逃げ出すに際し、クレタ人、ペレティ人、ガト人がダビデについて行こうとしていました(18節)。クレタ人もペレティ人も、ペリシテの人々です。長い間敵対し、自分たちを討ち滅ぼしたダビデのところに亡命し、傭兵となっているというところに、彼の仁徳があらわされているのでしょうか。

 その中にいたガト人イタイに、「あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。昨日来たばかりのあなたを今日我々と共に放浪者にすることはできない。わたしは行けるところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい」(19,20節)と、帰国を勧めます。

 そのときに、ガト人イタイがダビデに語ったのが、冒頭の言葉(21節)です。イタイは、ダビデの曾祖母、モアブ人ルツが姑ナオミに示したのと同じ忠誠と献身を、ここに示したのです(ルツ記1章16~17節)。

 イタイがそのような返答をする理由は不明です。もしかすると、自分自身の危機において、自分のことより傭兵のことを心にかけてくれるダビデの心情に触れて、何があってもダビデについて行こうと決めたのでしょうか。ただ、その背後に、慈しみ(ヘセド)をダビデから取り去りはしないと約束された主の憐れみが示されます(7章15節)。

 私たちは、主イエスが十字架の上で、自分を殺そうとする者のために父なる神に執り成し祈られた、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)という言葉で、深い主の憐れみに触れました。そうして、主を信じ、主に従う者とならせていただきました。

 イタイのように、「主は生きておられます。生きるも死ぬも、主がおいでになるところが僕のいるところです」と、常にその信仰を言い表す者にならせていただきましょう。

 いえ、私たちの主は、常に共にいてくださいます。「神ご自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」(ヘブライ書13章5節)。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(同8節)。

 主イエスは、「インマヌエル」(「神我らと共にいます」という意味)と唱えられるお方なのです(マタイ1章23節、28章20節)。ただただ感謝です。

 主よ、アブサロムの反逆は、元を質せばダビデの罪でした。預言者ナタンが告げていたとおりです。しかし、あなたはダビデを憐れまれました。同じ憐れみが、私たちにも注がれています。絶えず共におられる主の慈しみのもとに留まりましょう。恵み深い主の御言葉に耳を傾け、喜びをもって従って参りましょう。全世界に、インマヌエルの主の平安と喜びが常に豊かにありますように。 アーメン