「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない。」 サムエル記上20章31節

 サウルに追われてラマを逃げ出したダビデは、サウル王の息子ヨナタンのもとに来て、サウル王が自分の命を狙う理由を尋ねます(1節)。ヨナタンは、そのようなことはさせはしないと請け合いますが(2節)、ダビデはヨナタンに、新月祭の席を欠席して、サウルがそれを認めるか激怒するかで、サウルの真意を探るよう求めます(5節以下)。

 8節で、ダビデの方から「主の御前で契約を結んでくださったのですから、僕に慈しみを示してください」と持ちかけているところから、18章3節の契約以来、両者が対等の立ち場でいることが伺えます。ヨナタンは実行を約束した後(11節以下)、ダビデと契約を結び(16節)、サウルの真意を知った後の連絡の仕方を打ち合わせます(18節以下)。

 新月祭が来て、食事の席に来ないダビデに激怒したサウル王は、息子ヨナタンにダビデを捕らえ、殺すように命じます(30,31節)。ヨナタンがその理由を質すと(32節)、サウルはヨナタンをも殺そうと槍を投げつけます。

 サウルは、預言者サムエルの前で神の霊に満たされて預言する状態になり(19章23節)、自分の真の姿を見せつけられていたのですが(同24節)、結局、真の悔い改めにまでは至らなかったわけです。

 父サウルがダビデに対して殺意を抱いていることを知ったヨナタンは(33節)、翌朝ダビデと取り決めた時刻に若い従者を連れて野に出、打ち合わせどおりに行動しました(35節以下)。そして、ヨナタンが従者を帰すと(40節)、隠れていた場所からダビデが現れ、互いに別れの挨拶を交わします(41,42節)。ヨナタンは、出来ることならダビデと同行したかったことでしょう。

 ところで、冒頭の言葉(31節)の、ヨナタンの王権は確かではないというサウルの分析は、間違ってはいません。けれどもそれは、ダビデが生きているからではありません。第一、ダビデはヨナタンの王権を狙ってなどいません。

 そもそも、サウルが王位から退けられることになったのは、彼が神の御言葉に耳を傾け、忠実に従おうとしなかったからであり、今もなお、それを悔い改めようとしないからです。彼がそのようだから王位から退けられ、代わってダビデが王としての油注ぎを受けることになったのです。

 つまり、サウルが主に聴き従わない限り、首尾よくダビデを殺すことが出来たとしても、第二のダビデ、第三のダビデが登場して来ます。それは、主ご自身がサウルを王位から退けられることに決めておられ、サウルに代わる新たな王を選ばれているからです。そして、ダビデを新しい王として油注がれたのは主なる神ですから、人がそれを取り消すことは出来ないのです(15章29節)。

 また、神がサウルを王位から退けれらることは、既にサムエルによって語られており(同23,28節)、サウルも承知しているはずです。それをなお、ダビデの所為にするところがサウルの罪であり、今日でも、権力の座に着いた者がしばしば露呈する人間の弱さ、愚かさでしょう。

 既に、サウルを王位から退ける決定がなされ、サウルに代わる新たな王としてダビデに油が注がれましたが、状況が変化する兆しもありません。神は、サウルが御前に謙り、悔い改めて帰って来るのをひたすら待っておられたのではないでしょうか。ところが、サウルは自分が御言葉に聴き従おうとしないだけでなく、神に油注がれた者に手をかけようとしているのですから、処置なしです。

 一方、父サウルから、ダビデが生きている限り王権を脅かされていると言われた息子ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛し、ダビデのために行動します。「ダビデとヨナタンの間には何があるか」と問われて、「『と』があった」と、どこかの牧師がジョークを飛ばしていましたが、上述の通り、二人の間には、真実な契約が結ばれています。立ち場を超えて、二人に間には真実の愛があったのです。

 ダビデを王として選ばれたのが神の憐れみであれば、ヨナタンがダビデを愛するように仕向けられたのも、神の導き、恵みでしょう。神は、様々な手段、方法、そして人を用いて、ダビデをイスラエルの王として守り育て、導いておられるのです。だから、ダビデはサウルを主に油注がれた者として敬い、その命を奪うことが出来る状況になったときにも、サウルに手をかけようとはしなかったのです。

 神は祝福する者を祝福され、呪う者は呪われます(ルカ6章35節以下、38節、創世記12章3節)。主を仰いで主の御言葉を聴き、上からの恵みと平安で心を満たしていただきましょう。主の御愛を心いっぱいいただいて、互いに愛し合う者としていただきましょう。ダビデとヨナタンのように。

 主よ、今私たちを聖霊に満たし、キリストの御言葉が心に豊かに宿るようにしてください。絶えず感謝と賛美の生贄を、人としてこの世においでくださり、贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエスの御前に献げることが出来ますように。そして、このイースターの良いときに、隣人に主の愛と恵みを証しすることが出来ますように。 アーメン