「サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。」 サムエル記上10章9節

 サムエルがサウルの頭に油を注いで、イスラエルの王に任じました(1節)。油を注ぐ儀式は、王として選ばれた者に聖霊の知恵や力が授けられることを、目に見えるしるしとして行うものです。

 サムエルはそのとき、「主があなたに油を注ぎ、ご自分の嗣業の民の指導者とされたのです」(1節)と言いました。即ち、民の指導者となるために霊の賜物を授けるのは、主なる神ご自身であるというのです。

 ただ、その儀式は公然となされたわけではありません。人目を避けて町はずれで、そして、サウルの従者を先に返して(9章27節)、サムエルとサウルの二人だけで、秘かに行われました。いわば、主なる神がサウルをイスラエルの王として選ばれたことを、サウルにだけ示すための儀式だったのです。

 公にすべきときが来るまで、しばらくこのことは伏せられます。叔父からどこに行っていたのかと尋ねられた際(14節)、その儀式について、また、その後に経験したことについても、サウルは何も話しませんでした(16節)。

 油を注がれたサウルは、しかし、それが何を意味するものなのか、よく分からずにいたようです。というのも、イスラエルは王制を敷いたことがありませんから、王が何者なのかが分からなかったかも知れませんし、部族の長となろうと考えたことすらなかったのでしょう。

 だから、サムエルは先見者として、これからサウルの身の上に起こることを告げるのです。第一は、二人の男性がサウルを探していること(2節)、第二に、礼拝に向かう3人の男にパンをもらうこと(3,4節)、第三は、預言者の一団に出会い、サウルも預言する状態になるということです(5,6節)。それらのことが、主がサウルを王として選任されたしるしでした。

 サムエルがサウルに告げたことは、二人が別れたその日のうちに起こったと、冒頭の言葉(9節)に報告されていますが、10節以下、ギブアで預言者の一団と出会い、サウルの上に霊が激しく降って預言する状態になったことだけが特記されます。

 それは、王として選ばれたしるしであると同時に、委ねられた職務を全うするのに必要な賜物が授けられたということでしょう。サウルの上に激しく霊が降り、預言する状態になったということは、霊の働きで神の御声を聞き、それを語り告げることが期待されているということです。

 そして「これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」(7節)と告げます。神がサウルと共にいて、何をどのようにすればよいのか、知恵を授けてくださり、そして、思った通りに何でも出来るということでしょう。

 詩編1編2,3節に「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」という言葉があります。

 上記との関連で、サウルが主の教えを愛し、その教えに従う者となるよう促されているわけです。それは、サウルを通してイスラエルの民を祝福し、そのなすところすべて繁栄に至らせるためなのです。

 また、もう一つ大切な命令が発せられます。サムエルは、「わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげましょう。わたしがつくまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう」(8節)と言います。これは後に、サウルの運命を左右するものとなります(13章参照)。

  あらためて、「神はサウルの心を新たにされた」(9節)というのは、「別の心に変えた」(ヤハファーフ・レーブ・アヘール)という言葉遣いで、それは、サウルが霊の導きを受けて神の御心を悟ったということでしょう。その御心とは、サウルを王に任じるということで、サウルがそのとき、それを受け入れたわけです。

 「主の霊が激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになる」(6節)とサムエルが語っているのは、人が見てそれと分かるように容貌が変化するというのではなく、それまでとは違って、心新たに神に聴き、神に従う者となるということです。

 神はご自分の御旨に従って選任する者が、その使命を果たすことが出来るように聖霊の油を注ぎ、必要な賜物をお与えになります。サウルは、聖霊が降って心新たにされたとき、サウルは預言する状態になったと言われます(10節)。彼の耳が開かれて、神の御声を聴き、その言葉を語ったのです。

 それを見た人々は、「キシュの息子に何が起こったのだ。サウルもまた預言者の仲間か」と言いました(11節)。サウルの変化に驚いているわけです。以前のサウルを知っている人々は、サウルが預言者の一人のようになっていることが信じられないのでしょう。

 預言する状態からさめたサウルは、聖なる高台へ行きました(13節)。パレスティナでは、丘の上に礼拝の場所を築く習慣がありました。高いところは神に近いと考えられたのでしょう。そこに祭壇を築き、いけにえをささげて神を礼拝するのです。聖霊の賜物を受けて心新たにされたサウルが、神の御言葉を聞いた今、先ず神に礼拝をささげるのです。ここから、サウルの務めが始まりました。

 パウロが、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ書12章2節)と語っていますが、それは「心を新たにして自分を変えていただき」とあるように、自分で自分を変えるというのではなく、神様に変えていただくのです。

 どのようにしてでしょうか。それは、聖霊が降り、その力を受けることによってです。サウルはその力を受けたのです。私たちも、聖霊によって油注がれて神の器とされています。神が私たちを選んだ、そして立てたと言われているからです(ヨハネ15章16節)。

 絶えず耳を開いて主の御言葉に耳を傾け、信仰の創始者であり、目を開いて完成者であられる十字架の主を仰ぎつつ、聖霊の力を受けて使命を果たすことが出来るように祈りましょう。

 主よ、私たちがそれぞれ召されたところに従って御旨を行うことが出来るように、聞く耳、見る目、悟る心を授けてください。キリストは、私たちにとって神の知恵であり、義と聖と贖いとなられました。キリスト・イエスに結ばれ、常に全力を注いで主の業に励む者となることが出来ますように。 アーメン