「わたしの神なる主よ、わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」 士師記16章28節

 1節に「サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った」とあります。ガザは、ペリシテ南部の町で、ツォルアからは勿論、ユダの地のエタムからでも、かなりの距離があります。サムソンがそこまで遊びに行けたということは、ペリシテの人々が彼を恐れて、その行動を妨げることが出来なかったということでしょうか。

 ガザの町の人々が門のところで彼を待ち伏せして殺してしまおうと一晩中見張っていたところ、夜中に目を覚ましたサムソンは、町の門の扉と両脇の門柱を掴んで引き抜き、肩に担いでヘブロンを望む山の上に運び上げました(3節)。その恐るべき怪力に、待ち伏せしていた町の人々は、手を出すことが出来ませんでした。

 その後サムソンは、ツォルアの近くのソレクの谷にいるデリラという女性を愛するようになります(4節)。ソレクの谷は、エルサレムの西南西約20㎞から始まり、ヤッファの南で地中海にそそぐワーディ・エ・サラールと同定されています。ワーディとは、降雨の時だけ水が流れる、涸れた川のことです。通常は、地中海とユダの山地を結ぶ要路になっていて、それに沿って、ベト・シェメシュ、ティムナ、ツォルアなどの町々があります。

 ペリシテの領主たちがデリラのところにやって来て、サムソンの力の源がどこにあり、どうすればサムソンを縛り上げ、苦しめることが出来るのか、その秘密を探り出すよう依頼します。ということは、デリラはペリシテの女性だったと考えられます。

 その際、ペリシテの領主たちがそれぞれ銀1100枚ずつ与えると約束しています(5節)。ヨシュア記13章3節に、「五人のペリシテ人の領主の治めるガザ、アシュドド、アシュケロン、ガト、エクロン」とあることから、5人の領主が揃ってやって来たと考えると、銀1100枚ずつ、計5500枚を与える約束をしたことになります。

 銀1100枚は、エフライムのミカという人物が母親から盗んだという金額と同額であり(17章2節)、また、ミカが雇ったレビ人の年棒が十シェケルであったこと(同10節)を考えると、銀5500シェケルは驚くべき高額です。それほどの報酬を用意したということは、サムソンの人間離れした怪力に本当に手を焼いていたということが覗えます。

 高報酬に目がくらんだのか、デリラは早速サムソンに力の秘密を教えるように、迫ります(6節)。サムソンはしばらく適当にあしらっていました。けれども、しつこく迫るデリラの攻勢に耐えきれず(15,16節)、生まれながらのナジル人で、髪を剃られたら力が抜けてしまうということを打ち明けてしまいます(17節)。

 愛する女性に秘密を持ち続けられなかったわけです。このことは、愛したゆえに秘密を明かしてしまう危険性について、サムソンがティムナの女性との経験(14章14~20節)から何も学べていなかったことを示しています。

 秘密を知ったデリラは、ペリシテの領主に使いを出し(18節)、サムソンが眠ったところで髪の毛を剃らせました(19節)。聖別のしるしを失ったサムソンは、主が彼から離れられたので、力を失ってしまいました(20節)。

 デリラとは、「だれる、元気がなくなる、衰える」という意味の「ダーラル」という動詞と関係の深い名前です。名は体を表すというごとく、サムソンはデリラと関わって、その力が衰えてしまったのです。

 ペリシテ人らはサムソンを捕らえ、目をえぐり出してガザに連れ下り、青銅の足枷をはめて牢屋で粉をひかせます(21節)。そのとき、サムソンは何を思っていたでしょうか。それは何より、髪を剃られて聖別のしるしを失ったこと、それゆえ、士師としてペリシテからイスラエルを守るために戦う力を失ってしまったことを、深く後悔していたことでしょう。

 「しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた」と、22節に記されています。それは、人間としての普通の現象ですが、あらためてそのように告げられているのは、母の胎にいるときから神に献げられたナジル人として、縛られているゆえにぶどう酒も濃い酒も飲まず、頭にカミソリを当てない献身のしるしがその髪に示されているわけです(民数記6章2~8節参照)。

 それは、サムソン自身というよりも、母親の献身のゆえであり(13章3~5節)、選びの民イスラエルが異邦人に抑圧されているのを見過ごしに出来ない主の深い憐れみのゆえでしょう。

 ペリシテの領主たちは、宿敵サムソンを捕らえることが出来たとして、神ダゴンに盛大な生け贄を献げ、祭りを行っていました(23節)。宴会が進み、彼らは上機嫌でサムソンを引き出し、見世物にして楽しもうということになります(25節)。国を荒らし、多くの同胞を殺した敵を渡してくれたダゴンの神をたたえ(24節)、サムソンの惨めな姿を笑いものにして、留飲を下げるわけです。

 一方、異教の神が礼拝される中、そこに引き出されたサムソンは、主なる神に祈りを捧げます。それが冒頭の言葉(28節)です。サムソンが主に祈ったというのは、これが二度目ですが(15章18節)、ナジル人ながら神の使命のためではなく、「今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください」というのです。

 サムソンは今、主の助けがなければ何も出来ない自分であることを、いやというほど思い知らされています。愚かにも聖別のしるしをそられて、主が離れられ、力が抜けてしまいました。女性の裏切りから何も学ばないサムソンは、自分の使命にも無関心で、最後まで自己中心的です。

 「復讐のため」という祈りの言葉に問題を感じないわけではありませんが、しかし、主はサムソンの祈りを聞かれました。「ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」(13章5節)という御使いの言葉どおり、サムソンの最後の働きをイスラエルの救助の始まりとして、主が用いられるのです。

 建物を支えている柱にもたれかかり(29節)、力を込めて押したところ、建物は崩れ落ち、ペリシテの領主たちだけでなく、サムソンも含めてその建物の中にいたすべての人が死にました(30節)。サムソンは、それでペリシテのイスラエル支配が終焉を迎えたわけではありませんが、その死をもって大打撃を与えることが出来ました。

 この働きが、サムエルに引き継がれ、ダビデによって完成を見ることになります。となると、サムソンが最後にペリシテに打撃を与えることが出来たのは、彼の復讐心という手を利用してそれをなさしめた主の御心、サムソンを用い、その祈りを聞かれた主の憐れみがあればこそということです。

 私たちの主イエス・キリストは、何の罪も犯されませんでしたが、人々に捕らえられ、嘲られ、罵られ、十字架に死なれました。その死によってすべての人々の罪を赦し、永遠の命に与る救いの道を開かれました。私たちは、信仰により、恵みによって救われたのです(エフェソ書2章1節以下、8節)。 その恵みに感謝しつつ、主の愛の証し人としての使命を全うさせて頂きましょう。

 主よ、私たちも弱さ、愚かさをもっています。何度もあなたを悲しませて来ました。あなたの憐れみにより、今、ここにいます。どうか私たちの祈りに耳を傾け、御霊の力をお授けください。互いに赦し、愛し合う愛を授けてください。あなたの慈しみ深さを証しすることが出来ますように。 アーメン