「神はレヒのくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされた。彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った。それゆえ、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれ、今日もレヒにある。」 士師記15章19節

 サムソンが、子山羊を携えてティムナに妻の家を訪ねると(1節)、義父は14章12節以下の謎かけの一件により、娘はサムソンに嫌われてしまったと考えて、サムソンの友人に嫁がせたと言います(2節、14章20節)。「嫌った」は、申命記22章13,16節との関連で、「離縁された」と考えたということです。

 それに腹を立てたサムソンは、この件で「ペリシテ人に害を加えても、わたしには罪がない」と語り(3節)、300匹のジャッカルを捕らえて、結び合わせた尾の真ん中に松明を取り付けて火をつけ、刈り取った麦束や麦畑、ブドウ畑にオリーブの木まで、皆燃やしてしまいました(4,5節)。

 サムソンの犯行と知ったペリシテ人は、腹いせにサムソンの妻の父の家に火を放ち、妻とその父親を焼き殺してしまいます(6節)。それを知ったサムソンは、今度はそれを口実に、報復と称してペリシテ人を徹底的に打ちのめしました(7,8節)。

 そこで、ペリシテ人がユダに上って来て、レヒに向かって陣を敷きます(9節)。それは、サムソンを縛り上げて、仕返しをするためでした(10節)。ペリシテ軍の展開に驚いたユダの人々がサムソンに質すと、彼らがしたようにしただけとサムソンは答えます(11節)。これではラチがあきません。双方とも、相手が悪いと言うからです。

 ユダの人々はサムソンを縛ってペリシテに渡すと言い(12節)、危害が加えられないことを条件に、サムソンは縄につきます(13節)。ペリシテ人は、縛られているサムソンを見て、「歓声をあげて彼を迎え」(14節)ます。ここで、「歓声」(ルーア)というのは、戦い開始の鬨の声という意味です。つまり、勝利を確信した雄叫びだったわけです。

 ところが、そのとき神がサムソンに助勢し、主の霊が彼の上に激しく降ります。すると、縛っていた縄が簡単に千切れてしまいます(14節)。サムソンは、落ちていたロバのあご骨で、千人を撃ち殺します(15節)。

 「あご骨」のことを、ヘブライ語で「レヒ」と言います。それで、その場所が「レヒ」と呼ばれるようになったということです(17節)。主の霊の力が加えられれば、ロバのあご骨でも、主によって用いられる道具、主の器となるのです。

 その後、喉の渇きを覚えたサムソンは主なる神に祈ります。まず、「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました」と言います。自分の手で戦ったので、ペリシテに打ち勝ったということです。

 ただ、サムソンは「大いなる勝利」と言っていますが、それがペリシテのイスラエル支配を終わらせることになってはいません。それは、この戦いが主によって、主のためになされたものではなく、「我々(ペリシテ人)に対する仕打ちのお返し」(10節)として引き起こされ、それをサムソンが返り討ちにしただけのことだったからです。

 それに続いて、「しかし今、わたしは喉が渇いて死にそうです」(18節)と訴えます。死んでしまっては、もはや、勝利をもたらしたこの手で働くことが出来なくなると、少々恩着せがましく願っているです。

 それに対して主は冒頭の言葉(19節)の通り、サムソンの願いを聞き入れて、そこに水の湧き出る泉を設けられました。サムソンはその水を飲んで、「元気を取り戻し、生き返った」と言われます。ここで、「元気を取り戻し」というのは、「彼の霊(息)が戻った」(ターシャーブ・ルーホー)、生き返ったという言葉遣いです。

 文字通り、泉の水を飲んで一息ついたということでしょう。先には、御霊が降って力づけられたサムソンですが、今度は、命の水でリバイブしたのです。

 そうしてサムソンは、「20年間、士師としてイスラエルを裁いた」(20節)と言われますが。特にそれは、40年にわたってペリシテに苦しめられていたイスラエルを、彼らの手から救い出し、主に立ち帰らせる働きではありませんでした。自分一人をさえ、守り支えることが出来なかったのです。

 主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章14節)と言われました。この水は御言葉を象徴しており、それを飲むとは、信じるということを表しています。

 さらに、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7章37,38節)と語られます。それは、信じる人々に与えられる御霊のことと説明されます(同39節)。

 絶えず、御言葉の恵みに与り、生き生きとした信仰生活を歩ませていただきましょう。御霊の力を受けて、主イエスの証し人としての使命を全うさせていただきましょう。

 主よ、あなたはご自分の選びの器として、敢えて無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれます。それは、有力な者、知恵ある者、家柄のよい者に恥をかかせ、だれ一人、神の御前で誇ることがないようにするためでした。主よ、あなたに呼ばわります。助けを求めます。御言葉を与えてください。御霊に満たして用いてください。求める者に、聖霊をお与えくださるという約束の成就を信じて、感謝します。 アーメン