「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。」 士師記3章12節

 1節に「カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせた諸国の民は以下のとおりである」とあり、異教の民を追い出せと言われる神が、イスラエルの民が主の御言葉に従うかどうかを試すため、簡単には追い出せないようにしておられたということです。

 イスラエルの民は、残念ながら、主なる神の試験に繰り返し失敗し、先住民との婚姻を行い、彼らの神々に仕えました(5,6節)。2章で告げられていたとおり、彼らは神の家=ベテルであるべきところを「ボキム」(泣く者)としたのです(2章3~5節)。そのことについて、7節以下にその実態が記されています。

 イスラエルの人々が主を忘れてバアルとアシェラに仕え(7節)、神の怒りを買ったため、アラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡され、8年間、クシャン・リシュアタイムに仕えなければなりませんでした(8節)。アラム・ナハライムとは、2つの川のアラム、即ち、チグリス、ユーフラテスに挟まれたアラムという、メソポタミア地方北西部のことです。

 民が主に助けを求めたので、主なる神は、ユダ族はカレブの弟ケナズの子オトニエルを「救助者」として立て、彼らを救われました(9節)。オトニエルについては、1章12節以下に登場して、キルヤト・セフェルを占領し、カレブの娘アクサを嫁にしていました(ヨシュア記15章13節以下も参照)。

 嗣業の地を受けたのは、カレブが85歳のときです(ヨシュア記14章6節以下)。士師記は、カレブと同年輩のヨシュアが110歳で亡くなった後の時代です。記述通りであれば、オトニエルはこの時、何歳になっていたのでしょうか。

 よく分かりませんが、そのオトニエルが、イスラエルの救助者として、最初に登場する士師となりました。そして、その働きにより、イスラエルは40年にわたり、平穏な毎日を過ごすことが出来ました(11節)。

 2章18,19節に「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった」と語られていました。

 それがどういうことか、直ぐに示されます。士師オトニエルが召されると、冒頭の言葉(12節)の通り、イスラエルの民は、またもや主の目に悪とされることを行うのです。このことについて、懲りないというか、過去に学べないというか、これは、いにしえのイスラエルの民だけの問題ではなく、私たち日本人も含め、人間の愚かさを見ることが出来るのではないかと思います。

 そこで、主はモアブの王エグロンを強くされ、イスラエルを脅かされました(12節)。かつてモアブは、近づいてくるイスラエルの前に戦う以前に気力が失せてしまった王バラクが、遠くユーフラテス川流域のペトルから預言者バラムを呼び寄せ、イスラエルを呪わせようとする事件がありました(民数記22~24章)。そのとき主はバラムに、呪いに代えてイスラエルの祝福を語らせられました。

 しかしながら、ここで命に背いて主を怒らせ、主が味方されなくなったイスラエルは、モアブに対抗できません。それから18年にわたり、モアブの王エグロンに貢ぎ物を送り、仕えなければなりませんでした(14節)。その苦しみの中で、民が主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らのために再び救助者を立てられます。それが、二人目の士師、ベニヤミン族のゲラの子エフドです(15節)。

 エフドは左利きであったと言われます。ここには、言葉遊びが隠れています。ベニヤミンというのは、「右手の子」という言葉です。「右手の子」と呼ばれる部族に、左利きの士師エフドが立てられるというのは、何ともいえない主のユーモアでしょう。

 また、ベニヤミンは、関係の深いマナセ、エフライムの南に嗣業の地を得ました。「ヤーミン」には「南」という意味もあります。東を向いて祈るとき(オリエンテーション)、右方向は南を指すからです。マナセ、エフライムの南の民ということで、ベニヤミンと呼ばれたのかも知れません。

 同様に、モアブの王エグロンの名は4回言及され(12,14,15,17節)、「王は非常に太っていた」(17節)と言われます。エグロンが「小さい子牛」を意味するという註解もあります。貢物に対して貪欲というイメージを持たせるかのようです。 

 エフドは、貢ぎ物を携えてモアブのエグロン王を訪ねました(15節)。エフドは左利きだったので、通常は左腰に下げる剣を右腰に下げており、それを上着で隠していたために(16節)、それと気づかれずにエグロン王の執務室に入ることが出来ました。そして、まんまと王を暗殺することに成功したのです(21節以下)。

 部屋に錠がかかっているのを、王が用を足していると考え(24節)、従臣たちが王のお出ましを待っている間に、エフドは抜け出してセイラに逃れ(25,26節)、そこで今度はエフライム山地に角笛を吹いて兵を集め(27節)、エフドを追ってヨルダン川を渡って来ようとするモアブ人を打ちます(28節)。モアブ人はさんざん打ち破られ、それから80年、国に平和が戻ったのです(30節)。

 私たちは、父なる神の許から遣わされた救い主イエス・キリストを信じて罪赦され、永遠の命を受け、神の子とされました。それは、考えることも出来ない驚くべき恵みです。心から主に感謝し、信仰の正道をまっすぐに、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、強力な指導者がいなくなれば直ぐに背き、異教の神々に仕えてあなたを怒らせる民の叫びに耳を傾け、その都度、救助者をお立てになります。そこに深い主の愛と憐れみを見ます。私たちもその愛と憐れみによって救いに与り、今日まで信仰の道を歩んで来ることが出来ました。感謝です。常に主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩むことが出来ますように。 アーメン