「主の御使いがすべてのイスラエルの人々にこれらのことを告げると、民は声を上げて泣いた。こうしてこの場所の名をボキム(泣く者)と呼び、彼らはここで主にいけにえをささげた。」 士師記2章4,5節

 「主の御使いが、ギルガルからボキムにやって上って来て」と、1節に記されています。ギルガルは、イスラエルの民がヨルダン川を渡って、それを記念する石碑を立て、宿営したところであり(ヨシュア記4章19,20節)、シロに聖所を移すまで(同18章1節)、イスラエルの拠点が置かれていた町でした。

 一方、ボキムについては、1節と5節に出て来るだけで、他には全く出て来ないので、どこにある、どのような町なのか不明です。70人訳聖書(セプチュアギンタ:ギリシア語訳旧約聖書)は、「ボキム」を「ベテル」と訳しています。ベテルの町が「ボキム」になったということでしょうか。 

 ベテルは「神の家」という意味で、以前は「ルズ」と呼ばれていました(1章26節)。ルズとは「アーモンド」という意味です。イスラエルの父祖ヤコブが兄エソウの手を逃れ、母リベカの故郷ナホルの町に向かう途中、野宿していたところで神と出会い、祝福を受けました。それがルズで、ヤコブはその地を「ベテル=神の家」と呼んだのです(創世記28章10節以下、18節)。 

 かつて神は、この地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならないと言われました(2節、出エジプト記34章12,13節、申命記7章1,2節)。ところが、民はそれに従わなかったと言われます(2節)。

 具体的に、イスラエルの民がカナンの住民と契約を結び、その神々を礼拝したというような記述は、ヨシュア記からここまで、見い出されません。ただ、追い払うべき民を追い出すことが出来なかったと、1章に述べられているだけです。

 想像をたくましくして考えれば、ただ先住民が強くて追い出せなかったというだけでなく、むしろ彼らの習俗に倣ってカナンの神々を礼拝し、また互いに婚姻関係を結ぶことで、何とかイスラエルの民がカナンの地で生きることが許されるようになったということだったのではないでしょうか。けれどもそれは、まさしく御言葉に聴き従わないことであり、主を信じないことでした。

 そう考えると、主の御使いがギルガルからボキムに上って来たというのは、エジプトの恥をすすいでくださった主の御業を記念する場所から離れて、偶像礼拝に走ったイスラエルの民を探しに来たということなのでしょうか。それで、ヤコブ=イスラエルが祝福を受けた「ベテル」に来てみたら、そこが、異教の神が祭られる町になっていたというのでしょうか。

 それはちょうど、アダムとエバが禁断の善悪の知識の木の実を食べ、神の顔を避けて隠れているのを、「どこにいるのか」と呼ばれたという出来事の再現のようです(創世記3章9節)。神に背いたアダムとエバは、エデンの園を追い出され、自ら額に汗し、労苦して糧を得なければならなくなりました(同17節以下、23節)。

 「ボキム」に上って来た主の御使いは、神は先住民を追い払われない、異教の神々がイスラエルの民の罠となると告げました(3節)。イスラエルの民が神に従わないので、神もイスラエルの民を離れられたため、もはやその庇護を受けることが出来なくなったというわけです。

 それを聞いたイスラエルの民は、冒頭の言葉(4節)のとおり、声を上げて泣きました。おのが罪の深さを思い知らされ、それゆえ、いかに神を悲しませ、あるいは憤らせたのかを悟ったのです。その悔い改めの涙のゆえに、その場所は「ボキム」と呼ばれるようになったと説明されています(5節)。

 「ボキム」は、「泣く」という意味の「バーカー」という動詞の分詞で、「泣く人」という言葉です。かくて、「ベテル」が「ボキム」となったわけです。その意味で、かつてどのような神の御業が示され、いかなる恵みを味わった場所であっても、私たちがそれを忘れ、主の御言葉に背いて歩むとき、そこを「ボキム」とするのです。

 しかるに、イスラエルの民は「ボキム」で主の御使いに出会いました。もう一度、神の言葉を聴きました。彼らが御言葉を信じて歩むことが出来るなら、確かにそこは、誰も知らない、どこだか分からない「ボキム」ではなく、もう一度、彼らの涙をぬぐってくださる神のおられる「ベテル=神の家」となるのです。民はそこで、主にいけにえを献げました(5節)。

 私は1968年のクリスマスに、信仰を公に言い表してバプテスマを受け、キリスト者としての歩みを始めました。そこが私の「ギルガル」です。それから今日まで、様々な「ボキム」を通過して来ました。その度に、ギルガルから御使いがやって来て、正しい道へ導き返してくださいました。それゆえ「ボキム」が「ベテル」となりました。今日あるのはすべて主の深い憐れみのゆえです。

 主はいつも私たちと共におられ、御手をもって私たちを守り支え、御言葉をもって導いてくださいます。もう一度、あなたのギルガルを思い起こしましょう。そして今、どこにいるのか、確認してみましょう。絶えず主を仰ぎ、その御声を聴き、導きに従うことが出来るよう、日々祈りつつ歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたこそ、私たちのよい牧者です。私たちには乏しいことがありません。御名によって私たちを正しい道に導いてくださいます。あなたが共におられるので、災いを恐れません。御言葉と御霊によって、いつも励まされ、勇気が与えられます。常に恵みと慈しみが私たちを追いかけて来ます。ベテルに帰り、生涯そこに留まらせてください。 アーメン