「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。」 ヨシュア記23章11節

 23章は、小見出しに「ヨシュアの告別の言葉」という通り、まさにヨシュアの遺言ともいうべきものです。1節に「イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった」とあります。ヨシュアの生涯は、110年でした(24章29節)。

 3節でヨシュアは「あなたたちの神、主があなたたちのためにこれらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた」と言い、民が見たのは、「あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった」ことと示します。

 そして4節で「わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国々も、既に征服した国々もことごとく、くじによってあなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた」と、約束の地カナンの土地の分配を行ったことを告げます。

 そして5節で「あなたたちの神、主は、神自ら彼らをあなたたちのために押しのけ、あなたたちのために追い出される。あなたたちの神、主の約束されたとおり、あなたたちは彼らの土地を占領するであろう」と語り、未征服の地を主が完全に占領することになることが予告されます。

 主はかつてヨシュアに、「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」(13章1節)と言われていました。老人には無理だから、もう諦めなさいと言われたのではありません。老齢になっても、取らなければならないもの、望むべきもの、進むべき地があったのです。

 今その役割を終えて、歴史の舞台から降りようとしているヨシュアの心に満ちているのは、主なる神を信じ、御言葉に従う歩みの確かさ、それ故の感謝の念でした。だから6節で「右にも左にも逸れることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい」と言い、8節で「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」と命じています。

 モーセからバトンを受け継ぎ、「強く、雄々しくあれ」(1章6,7,9,18節など)と励まされながら、ヨシュアが心がけたのは、主を固く信頼すること、モーセの教えの書に記されている主の御言葉に聴き従うことだったのです。

 そこで、「占領すべき土地はまだたくさん残っている」と主が語られた御言葉は、必ず実現出来ると信じ、「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことが出来る」(17章18節)と告げることも出来ました。

  そして冒頭の言葉(11節)で「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」と言います。イスラエルの民にとって最も重要なことは、神様を愛することだというのです。「あなたたちも」に示されているのは、ヨシュアがそうして来たとおりとにいうことです。

 これは、主イエスが最も重要な掟として示した、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ福音書22章37節、申命記6章5節)という命令とも通じます。

 私たちは、山を眺めて美しいと思います。しかし、実際に高い山に登り、深い森に分け入ってみると、見ただけでは決して味わえない、そこに行かなければ分からない世界があります。また、海の青さに感動することもありますが、深い海の底は光も届かない闇の世界です。やはり、そこに行かなければ味わい見ることの出来ない光や音、命の営みがあるのです。

 信仰的なこと、霊的なことも同様です。さらに深く神を知ることが出来ます。さらに深く神を信じることが出来ます。さらに深く神を愛することが出来ます。毎日、忙しくあわただしく過ごしていると、つい見過ごし、見逃しているものが少なくありません。心静かに神の御言葉に耳を傾けることが出来るでしょうか。神は私たちをさらに深い恵みの世界へ導こうとしておられるのです。

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ書11章33節)とパウロは言いました。神の知恵、神の知識、神の道を完全に理解し、把握出来るという人はいないでしょう。

 けれども、聖書は、それならば理解しなくてよいなどとは言いません。「『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」(第一コリント書2章9~10節)と告げています。

 また、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ2章3節)とも語られていて、パウロは、主イエスとの親密な交わりを通して、その内に隠されている知恵と知識の宝を、神から頂くことが出来ると教えているのです。

 主イエスも、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(ルカ福音書6章47,48節)と言われています。 

 ヨシュアは、神の御声を聞きました。神の御業を見ました。神の御心を悟る心が与えられました。私たちはどうでしょうか。もっと深く神を知り、もっと深く恵みを味わい、霊の深みから真心込めて神に礼拝をささげたいと思います。深く御言葉を味わい、御霊の泉の中に身を置きたいと思います。

 心を込めて主を愛し、その御言葉を慕い求めましょう。御声に耳を傾け、御霊の導きに従いましょう。

 主よ、あなたは御子をさえ惜しまず、私たちにお与えくださいました。その御愛は、御子が御自分の命を私たちのためにささげてくださった、まさに命そのものです。その御心を悟らず、御手に委ねることが出来ず、自分勝手に歩んでいる自分を悔い改めます。日々神を信じる信仰の深みを教えてください。その広さを悟らせてください。 アーメン