「彼女は言った。『お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください』。彼は上と下の溜池を娘に与えた。」 ヨシュア記15章19節

  15章には、ユダ族に与えられた地の範囲が記されています。それは、ヨルダン川が死海に注ぎ込む河口から西に地中海まで線を引き、その線の南方、死海と地中海に挟まれた地域が、ユダの嗣業の地です。南部は雨の少ない山地で、農耕にはあまり適しませんが、面積では、カナンの地の三分の一以上の大きさがあります。

 父祖ヤコブの4男ユダが活躍する場面はあまりありませんが、ルベンと共に、ヨセフの命を守ったことや(創世記37章21節以下)、ヨセフの弟ベニヤミンの命を請け負い(同43章8節以下)、ベニヤミンの身代わりになると訴えたこともありました(同44章18節以下)。

 ヤコブの長男ルベンの姦淫や(同35章22節)、次男シメオンと三男レビのシケムでの蛮行のゆえに(同34章)、ヤコブの覚え宜しく(同49章)、ユダの子孫が最も重要な部族となったと考えてよいのでしょう。

 13節に、ヨシュアがカレブにヘブロンを割り当て地として与えたことが記されています(14章13節も参照)。ヘブロンは、もとは「キルヤト・アルバ」と呼ばれていました(13節、14章15節)。これは、アナクの偉大な人物アルバに由来する名前(「アルバの町」の意)です。ヘブロンは、海抜1000mの丘陵地で、泉が多くあり、斜面はぶどうの名産地になっているそうです。

 アブラハムの時代は、ヘブロンにヘト人が住んでいて、妻サラを葬るために、ヘト人エフロンの畑と洞穴を墓地として購入したことが、創世記23章に記されていました。その後、この墓地には、アブラハム(同25章9,10節)、その子イサク(同35章節以下)と妻リベカ(同49章31節)、その子ヤコブ(同50章13節)と妻レア(同49章31節)が葬られました。

 カレブは、ヘブロンからアナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイという3氏族を追い出し(14節)、次いで、デビルの町を攻めました(15節)。それを自分が攻め落とすというのではなく、攻め落とすことが出来た者に、自分の娘を妻として与えると約束します(16節)。

 すると、カレブの兄弟オトニエルが名乗りを上げ、町の占領を成し遂げました。そこで、カレブは娘アクサを妻としてオトニエルに与えました(17節)。

 アクサは夫となるオトニエルに、父から畑をもらえと言い、アクサ自身はカレブに冒頭の言葉(19節)の通り、溜池も添えてくれと願います。前述のとおり、イスラエル南部ネゲブの地はあまり耕作に適さない荒れ野ですから、水の確保は欠かせません。カレブはその求めに対して、「上と下の溜池を娘に与えた」と言われています。

 アクサは、父カレブが自分たちの求めに必ず応えると信じていたのでしょう。パウロは、「わたしの神は、御自分の栄光の冨に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(フィリピ4章19節)と言いました。神は豊かなお方で、その豊かさに従って私たちに必要なものを豊かに満たしてくださるお方だと、教えてくれます。

 二つの池といえば、イスラエルの大きな湖のガリラヤ湖と死海を思い出します。ガリラヤ湖には多種多様な魚が群れており、ここで漁れた魚の一部は海外に輸出されるほどだそうです。ところが、ヨルダン川下流の死海には、魚が一匹もいません。

 ガリラヤ湖の水は、水源地フィリポ・カイザリヤから上ヨルダン川を通して流れ込んで来ます。そして、下ヨルダン川を通じて、死海に向かって流れ出して行きます。ところが、死海は海面下-396mで、その水は蒸発する以外、どこにも流れ出ていきませんので、塩分が濃縮してしまいます。塩分濃度が高すぎて、生物など生息出来る環境ではないのです。

 それはさながら、恵みを受けるだけで他者に分け与えなければ、その恵みは死んで、無駄になってしまうということを、見えるかたちで教えているようです。イスラエルの父祖アブラハムは、地上のすべての氏族が彼を通して祝福に入るよう、祝福の源として選ばれました(創世記12章2,3節)。キリスト者はアブラハムの子として(ガラテヤ書3章7節)、その使命を受けているのです。

 新約聖書ヨハネ福音書に、二つの泉の記述があります。ひとつは4章14節で「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と記されています。これは、主イエスを信じる者の内に、永遠の命に至る水が湧き出る泉ということで、主イエスとの交わりによって豊かに活かされるという表現と見ることが出来ます。

 今ひとつは7章38節の「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という言葉です。その人の内か生きた水が泉となって湧き上がり、流れ出て川となるというのは、それは霊のことを指していると、同39節に注記されています。

 つまり、霊の働きはその人を泉として、命の水が川となって流れ出るようにさせることだというわけです。しかも、「川(ポタモイ=rivers)」は複数形です。幾筋もの川となって流れ出していくということで、それは何という豊かな泉、川の流れでしょうか。

 使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」とはそのことです。即ち、主イエスとの交わりによって生かされている人には、聖霊の恵みが与えられ、それは、他の人を生かす働きをする主イエスの証人となる力を与えるということです。

 また、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(第一コリント書12章7節)と言われます。カリスマ(霊の賜物)は、全体の益となるために与えられているというのです。

 神の恵みを豊かに受けて、それを他の人のために用いる人は、さらに豊かに与えられるでしょう。恵みを私するなら、それは腐って役に立たなくなってしまうでしょう。信仰によって二つの泉を持ち、常に主の御業に励む者とならせて頂きましょう。

 主よ、主イエスの贖いによって罪赦され、神の子とされ、永遠の命が授けられました。今、私たちの内には聖霊が宿り、御言葉の真理を教え、主の証人となる力を授けてくださいます。主との日毎の交わりが豊かにされ、力を受けて主の御用をまっとうすることが出来ますように。 アーメン