「主の軍の将軍はヨシュアに言った。『あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』。ヨシュアはそのとおりにした。」 ヨシュア記5章15節
ヨルダン川を渡ってギルガルに宿営している民に、主は割礼を施すよう命じられました(2節)。エジプトを出て来た人々は割礼を受けていましたが、彼らは荒れ野を巡り歩いている間に死に絶えてしまいました(4,5節)、そして、荒れ野で生まれた男たちは、割礼を受けていなかったのです(5,7節)。
割礼は、主なる神との契約のしるしとして、男子に施されました(創世記17章9節以下、レビ記12章3節)。荒れ野で生まれた男たちが無割礼だったということは、荒れ野を旅する間、いかに主と民との間の契約が蔑ろにされていたかというしるしになるでしょう(6節)。
割礼を受けた場所を「ギブアト・アラロト」(3節)といいます。「ギブア」が丘、「アラロト」が包皮で、「ギブアト・アラロト」は「包皮の丘」という意味です。包皮を切り取る割礼を行った場所ということで、そのように言われたわけです。
主がヨシュアに「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)」(9節)と言われました。それで、その場所がギルガルと呼ばれるというのです。包皮を切り取ることが、エジプトの恥辱を取り除くこと取り除くという説明になっています。
「今日、エジプトでの恥辱を取り除いた」ということは、エジプトを脱出するだけでは、恥辱は取り除かれたことにならなかったということです。そして、続く荒れ野の生活においても、その恥辱を雪ぐことが出来なかったのです。
「エジプトでの恥辱」というのですから、それは、エジプトにおける奴隷生活のことを指しているのでしょうけれども、モーセに率いられてエジプトを脱出したものの、不信仰、不従順であったために、エジプトを脱出した第一世代は、約束の地に入ることが出来なかったということをも、ここに示しているわけです。
それが「エジプトでの恥辱」という言われ方をするのは、民数記14章での、約束の地に行って剣で殺され、妻子を奪われるくらいなら、エジプトに引き返した方がましだというイスラエルの民の反抗により、彼ら自ら、エジプトの奴隷の地位にいることを良しとして、神が与えると言われた約束の地における真の自由を受け取ろうとしなかったため、ということなのでしょう。
割礼を受けた後、彼らはエリコの平野で過越祭を祝いました(10節)。それは、永遠に守るべき定めとして、「主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない」(出エジプト記12章25節)と規定されていたからです。
割礼を施した後に過越祭を祝ったのは、「無割礼の者は、だれもこれを食べることができない」(同12章48節)という規則になっているからです。ということは、これまでずっと過越祭が行われてこなかったということ、これから、主の救いの出来事を祝いつつ生きる、新たな生活が始まるということです。かくて、ヨシュアたちは今ここに神との契約を確認し、皆で喜び祝ったわけです。
ただ、彼らがどのようにして麦を手に入れることが出来たのかは、不明です。ある註解者は、1節に示されるヨルダン川の西側にいた者たちが、ヨルダン川を渡って来たイスラエルの人々に恐れをなして逃げ出した結果、そこに残されていたものであろうと推察しています。
割礼を施した後に過越祭を祝ったのは、「無割礼の者は、だれもこれを食べることができない」(同12章48節)という規則になっているからです。ということは、これまでずっと過越祭が行われてこなかったということ、これから、主の救いの出来事を祝いつつ生きる、新たな生活が始まるということです。かくて、ヨシュアたちは今ここに神との契約を確認し、皆で喜び祝ったわけです。
ただ、彼らがどのようにして麦を手に入れることが出来たのかは、不明です。ある註解者は、1節に示されるヨルダン川の西側にいた者たちが、ヨルダン川を渡って来たイスラエルの人々に恐れをなして逃げ出した結果、そこに残されていたものであろうと推察しています。
過越祭が行われた後、どれほどの日時が経過したのか分かりませんが、あるときヨシュアは、エリコのそばで、抜き身の剣を手にした一人の男が立っているのを見ました(13節)。ヨシュアが歩み寄り、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると(13節)、彼は、「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、ついたところだ」と答えました(14節)。
「いや」というのは、味方でも敵でもないということです。即ち、主の軍の将軍はこのとき、ヨシュアに味方するために来たというのではありません。ことを決するのは神であり、ヨシュアが主の命に従うかどうかを試しに来たわけです。
抜き身の剣といえば、預言者バラムの前に立ち塞がった主の御使いのことを思い出します(民数記22章22節以下)。バラクの報酬に目のくらんでいるバラムは、抜き身の剣を持って立っている主の御使いを認めることが出来ませんでした。後で目の開かれたバラムに「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(同35節)と御使いが告げました。
一方、ヨシュアはすぐにひれ伏して拝し、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と尋ねます(14節)。つまり、ヨシュアは主の軍の将軍の前にひれ伏すことで、主に従う姿勢を示したのです。神は、どんないけにえよりも、御前に謙り、御言葉に聴き従うことを喜ばれます(サムエル記上15章22節、詩編40編7節、51編18,19節)。
主の軍の将軍は、冒頭の言葉(15節)の通り、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる所である」と言います。これは、神の山ホレブで燃える柴の間からモーセに語られた神の言葉を思い出させます(出エジプト記3章5節)。つまり、ここで主の将軍は、ヨシュアに履物を脱がせて、まさしく、主に聴き従う下僕として召しているのです。
また、「聖なる所」は6章19節の「聖なるもの」と同じ言葉です。その関連で、モーセの立っている場所が「聖なる所」だというのは、エリコが主のものであるという宣言と考えることが出来ます。だから、主の命に従ってその地を獲り、すべてを神にささげることが求められることになるのです(6章2,17節)。その召しを受けて、「ヨシュアはそのとおりにした」(15節)と記されています。
ペトロが「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(第一ペトロ5章6,7節)と告げています。
私たちも日々主の御前に謙り、その御言葉のとおりに喜びをもって従いたいと思います。
主よ、あなたはヨシュアに履物を脱ぐように命じました。私たちも今、履物を脱ぐ思いで御前にいます。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。どうぞお語りください。僕どもは聞いております。いたるところで御名が崇められますように。御心がこの地にもなされますように。その道具として私たちを清め、用いてください。 アーメン
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