「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。」 ヨシュア記2章12節

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、いよいよ約束の地、カナンへやって来ました。最初に、ヨルダン川を渡ったところの最初の町エリコとその周辺を、二人の斥候に探らせました(1節以下)。二人の斥候は、そこで遊女ラハブと出会います。今日は、そのラハブの言葉から学びたいと思います。

 先ず、9節です。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、怖じ気づいていることを、わたしは知っています」とあります。ここでラハブは、イスラエル人が近づいて来たと聞いて、エリコとその周辺の人々は恐怖に襲われ、怖じ気づいていると言っています。

 それは神が、エリコの町と周辺の人々に、イスラエルを恐れる心を与えられたからです。10節に「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が足の海の水を干上がらせらことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています」と語られています。

 ここで、エジプトから脱出するために葦の海を通った時、主が海を干上がらせたというのは、出エジプト記14章19節以下に記されている奇跡です。そのような奇跡を起こすことが出来る神は他にはいないと考えて、イスラエルを恐れたのでしょう。

 また、アモリ人の二人の王の軍隊を滅ぼしつくしたというのは、民数記21章21節以下の「シホンとオグに対する勝利」の出来事を指しています。

 イスラエルの民が、強力な武器を持っていたというわけではありません。戦いに勇ましい武装集団などというわけでもありません。ただ、主なる神がアモリ人との戦いに勝利をお与えくださったのです。だからこそ、エリコの人々は、イスラエルと共におられる主なる神を恐れたわけです。

 次に、11節の後半です。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と言います。ここに、ラハブの明確な信仰の告白があります。「上は天、下は地に至るまで神であられる」とは、イスラエルの神以外に神はいない、主こそ、まことの神だということです。

 カナン周辺には、雨の神バアルや大地の神アシェラを神として礼拝する信仰がありました。太陽や月、また牛などが神として拝まれることもあります。一方、聖書では、神はただお一人で(申命記6章4節)、天地万物を創造されたお方と教えています(創世記1章1節以下など)。

 異邦人の女性が、どうしてこのような信仰を持つことが出来たのでしょうか。それは、神の導きとしか、言いようがありません。主こそ神であることを悟る心、神の栄光を見る信仰の目、神の御声を聴くことの出来る耳は、神の賜物、プレゼントなのです(申命記29章4節)。

 新約の時代となり、わが国の西方1万㎞かなたのイスラエルから、欧州、米国を経てイエス・キリストを主と信ずる福音がわが国にももたらされました。時を超え、国境を超え、民族文化を越えて、今ここにいる私たちに「イエスは主である」という信仰を告白させてくださるのは、聖霊なる神の働きであると、一コリント12章3節に教えられています。

 それから、冒頭の言葉(12節)のとおり、ラハブが二人の斥候に「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前で、わたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください」と求めています。

 ここに「誠意」と言われているのは、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉です。「ヘセド」は、通常「憐れみ、慈しみ」と訳されます。ある聖書では、「変わらざる愛」と訳されていました。

 ラハブは、自分が神のように見ているイスラエルの二人の斥候に、変わらない愛を求めました。それも、自分だけでなく、自分の一族のために。こんな虫がいい、図々しいような求めに応えられるでしょうか。それとも、拒否されるのでしょうか。

 答えは、「応えられる」です。なぜでしょうか。それは、主は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト記34章6,7節など)お方だからです。イスラエルの斥候をかくまったラハブに対しても、主はその慈しみを示してくださいます。

 「幾千代にも及ぶ慈しみ」ということは、ラハブの家族、子孫に対しても、誠意をお示しになるということになるでしょう。「だから」と言うべきか、「そのために」と言うべきか。ラハブの子ボアズがダビデ王の曾祖父となり(マタイ福音書1章5,6節)、そしてその28代後に「メシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(同16節)のです。

 新約聖書に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という言葉があります(使徒言行録16章31節)。家族の一人が主イエスを信じると、その信仰で、神の救い、神の慈しみがその家族に及びます。それが神の御心、ご計画だということです。

 私たちは、変わらない愛で主なる神を愛せるでしょうか。私たちがどのような思いで主を信じ、愛しているか、主ご自身がよくご存じです。むしろ、私たちが信仰を失うことのないように、主が執り成し祈っていてくださいます。私たちの信仰は主の祈りに守られ、支えられているのです(ルカ22章31~32節参照)。

 ラハブはさらに、確かな証拠を求めました。そのことで、斥候は「我々の命をかけよう」(14節)と答えます。もしも、ラハブにその確証を与えなければ、無事にエリコの町を出ることは出来ないでしょう。だから、「命をかける」というのは、彼らの本気を示しているわけです。

 さらに、「我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい」(18節)と告げます。そのひものある家は攻撃の対象から外すということです。さながら、過越の出来事を思い起こさせる行為です(出エジプト記12章6,7,13節参照)。ラハブはすぐに、その赤いひもを窓に結び付けました(21節)。

 私たちに与えられる救いの確証とは、真理の御霊、聖霊です(エフェソ1章13~14節参照)。聖霊が、わたしたちが神の子であることを証ししてくださり、御国を受け継ぐ保障となってくださるのです。だから、主なる神を「アッバ、父よ」と呼び求めます(ローマ書8章15節、ガラテヤ書4章6節)。

 さらに、聖霊を通して、私たちの心に神のご愛が注がれます(ローマ5章5節)。御霊によって、すべてをありのまま受け入れる広い愛、すべての罪を赦し救う深い愛、いつまでも変わらない永遠の愛、そして、御国の栄光を示す清く高い愛を知り(エフェソ3章17節以下)、その愛をもって互いに愛し合いましょう。

 主よ、御子を信じる信仰によって私たちが神の子とされていること、その権威、その力を知り、またそのためにどんなに大きな愛を賜ったかを悟らせてください。そうして、私たちに委ねられている使命を自覚し、聖霊の力と愛を受けて、それをしっかり果たすことが出来ますように。 アーメン