「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。」 申命記34章5節

 申命記の最後に、「モーセの死」が報告されます。創世記から申命記までの5巻をモーセ五書と呼び、伝統的にモーセがその著者であるという考えが示されていますが、少なくとも申命記34章は、モーセが書けない文章です。明らかに、後代の人が申命記を編集して、この部分を書き記したわけです。

 死の直前、神はモーセをネボ山に登らせ、イスラエルの全地を見せられました(1節)。3章27節に語られていたこと、さらに、32章49節で主に告げられたを、ここで実行したわけです。

 現実には、標高800m程度のネボ山から、イスラエル全地を見渡すのは不可能です。オリブ山も標高は800mを超えているので、その西側のエルサレム(海抜754m)を見ることはできません。全地を見渡すことが出来たというのは、ネボ山に登ったからではなく、主がモーセにそれを見せられたからということでしょう。

 「ギレアド」はヨルダン川の東側、「ダン」、「ナフタリの全土」はイスラエルの北境、「エフライムとマナセの領土」はイスラエル中部、「ユダの全土」はイスラエル南部、「ネゲブ」はイスラエルの南境、「エリコの谷からツォアルまで」は、死海周辺のことです。これで確かに、イスラエルの全地を見渡したことになります。

 かつて主がアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」と言われました(創世記13章14,15節)。

 モーセにすべての地を見せられたということは、それをモーセとその子孫に与えるということを表しています。4節で「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした」と言われるのは、そのことです。

 けれども、モーセはそれを自分の所有にすることは出来ませんでした。そこに入ることが許されなかったのです。「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」(4節)と、最後の最後にもう一度、駄目押しをされています。

 そして、冒頭の言葉(5節)で、モーセの死が報告されます。それは、主のご命令によるものだったということですが、どのような最期だったのかは不明です。そのときモーセは「120歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」(7節)のです。

 その上、モーセを葬ったのが主ご自身で、その墓が「ベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷」(3章29節:イスラエルの民が宿営していた場所近辺)にあるようですが、しかし、「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」(6節)と言われます。ということは、モーセの死を見届けた者は誰もいないということになります。

 あらためて、なぜモーセは約束の地に入ることを許されなかったのでしょうか。それについて、「メリバの水」の出来事で、約束の地に入ることが出来ないということにされています(32章51節、民数記20章1節以下、12節)。

 それとは別に、1章37節に「主はあなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。『あなたもそこに入ることはできない』」と記されていて、イスラエルの民の罪の連帯責任を取らされるかたちで、主がモーセに対して憤られ、ヨルダン川を渡ることが拒まれています。

 モーセは、ヨルダン川を渡りたいと考えていました。そう願いもしました(3章25節)。けれども、イスラエルの民の罪のゆえにその願いは聞かれませんでした(同26節)。メリバの水の出来事であれ、民の罪の連帯責任であれ、約束の地を目指して民を率いてきたモーセに対して、それはあまりに厳しいなさりようではないでしょうか。

 しかしながら、この情け容赦ない、少々理不尽ささえ感じる厳しい処置に対して、モーセ自身は全く抗弁してはいません。約束の地に入りたいと願いはしましたが、拒絶されてた後、神に文句を言ってはいません。悔しいと思わなかったのでしょうか。恨みに思わなかったのでしょうか。モーセが自分の思いをどのように処理したのか全く分かりませんが、ともかくも、主の命令を受け入れているのです。

 ここに、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ書2章8節)という主イエスと同様の「苦難の僕」(イザヤ書53章4~6節など)の姿を示されます。主イエスこそ、何の落ち度もない、罪のない神の御子であられますが、神の命令に従い、私たちの罪を十字架に負って、30代の若さで死なれました。

 であれば、そのように主の命令に従うことは、モーセにとって、最高の喜びだったのではないかと教えられました。こうしてモーセは、「主の僕」としての生涯を全うし、主の命令に従って天に召されたのです(5節)。

 モーセは、神から与えられた掟と法を、民に守るよう教え(4章以下)、神との契約を更新しました(28章69節以下)。これからイスラエルの民は、モーセに従ってというのではなく、神の戒めに従って歩まなければなりません。それこそが、神の御心といってもよいでしょう。

 私たちにも、神の御言葉が与えられています。日々、主の御声に聴き従いましょう。そのため、悟る心、見る目、聞く耳が与えられるよう、絶えず祈り求めましょう。  

 主よ、あなたは御前に謙る者を高く引き上げてくださるお方です。徹底的に御言葉に従って歩み、約束の地に入る直前の死をさえ従順に受け入れたモーセのように、私たちもあなたを畏れ、あなたに信頼し、御言葉に従うことを喜びとする主の僕として歩むことが出来ますように。 アーメン