「あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」 申命記29章2,3節

 29~32章は、モーセの決別説教というべき部分です。まず29,30章に、モアブで結んだ「契約の言葉」が告げられます。28章69節(口語訳、新改訳は29章1節)に「これから述べるのは、主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である」と記されています。

 その後、モーセの後継者として正式にヨシュアを立てて、その任務を委譲し(31章)、「モーセの歌」を語り聞かせて、「最後の勧告」を行いました(32章)。

 「契約の言葉」は、1節以下7節までのところで、簡潔にこれまでの歩みを振り返っています。1,2節で、イスラエルの民がエジプトを脱出するために起こされた神の災いを思い起こさせ、4,5節では、荒れ野で経験した神の恵みに触れ、6,7節には、ヨルダン川東岸での戦いに勝利して嗣業の地に編入したことが記されています。

 ただ、冒頭の言葉(2節)で「今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」というのは、イスラエルの民が、これら神の偉大な御業を主の御業としてでなく、自分たちの努力の結果と勘違いしていたのではないかということを示唆するものです。もしも、見るものを見、聞くべき言葉を聴いていれば、それが神の御業であることを悟れたはずだということです。

 そもそも、神が彼らに憐れみをかけてくださらなければ、エジプトを一歩も離れることは出来なかったでしょう。イスラエルの民は、エジプトにいたときから約束の地を目前にしている今日まで、様々な恵みを味わって来ました。そして、約束の地に入ってからも、恵みによって生かされる生活は続きます。

 しかしながら、イスラエルの民は、神の民として神を畏れ、その御心を悟り、神にのみ信頼して、従順にその御言葉に聴き従うということが出来ませんでした。何度も神に不平を言い、繰り返し主に背いて、その怒りを招きました。

 だから、シナイの荒れ野で登録されたイスラエルの成人男子について(民数記1章)、ヨルダン川東岸のモアブの平野で再調査した時には、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて、生き残った者はいなかったという結果を招いてしまったのです(同26章)。そこで、もう一度改めて、次の世代の者たちと契約を結ぶことになったわけです。

 9節に「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水を汲む者に至るまでいる」と言われています。

 主なる神と契約を結ぶために、「部族の長、長老、役人からすべての男子、その妻子」という、イスラエルのすべての民だけでなく、宿営内の寄留者に、薪を集め、水を汲む僕たちも、主の御前に共に立っています。

 これは、ここで結ばれる契約は、イスラエルの選民思想とは無縁ということです。また、イスラエル民族という集団というより、共同体を構成する一人一人と結ぶということでもあります。

 そのことは、13~14節の「わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである」という言葉にも表れています。

 神はこの契約の相手を、世代を越えてもっと広げようとしておられるのです。今ここに共にいない、次の世代、次の次の世代、もっとずっと後の世代の人々とも結びたいということです。

 「今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳を持たなかった」(3節)という言葉を、イスラエルの民は、特にバビロン捕囚において噛みしめることになったことでしょう。それこそ、亡国の憂き目を見た一番の原因だったからです。そして、再びイスラエルに戻って来るに際して、改めて主との契約を結ぶ言葉を聞くというのは、極めて重要な意味を持ったことでしょう。

 そしてまた、この時モーセがそう考えていたとは思えませんが、「今ここに共にいない」、別の場所にいる者、つまり、イスラエルの民ではない、周辺諸国の人々とも結ぶということにもなるのではないでしょうか。だから今、私たちも主なる神との契約のうちに入れられているわけです。キリストの福音がイスラエルの民から異邦人へと広げられた根拠が、ここに記されていたということです。

 冒頭の言葉との関連で、主なる神は、エジプトを出たイスラエルの第二世代の民から、寄留者、奴隷、そして、異邦人、後のすべて世代の人々に、「悟る心、見る目、聞く耳」に示されている、主を神と信じる信仰をお与えくださるために、新しい契約を結ぼうとしておられるということになります。

 パウロが「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章17節)と言いました。申命記において、神の御言葉、すべての掟と法、神の命令と教えに忠実に従うように、何度も命じられています。

 神の御言葉を聞くことから始まる信仰を通して、主のほかに私たちを救うことが出来るものはないと悟ること、このお方の約束を信じ、その御手にすべてを委ねて歩むこと、そして、このお方の御言葉、御教えに忠実、従順な選びの民となるように、繰り返し語られ、導かれているのです。

 神はかつてホレブで契約を結び、そして、ここモアブでそれを更新されます。一度契約を結べば、それで善いというのではありません。あなたは「今日」、わたしと契約を結びますかと、神は問われるのです。即ち、神との契約は毎日更新されるのです。毎日、「あなたは今日、私を主と呼びますか。私の言葉に耳を傾けますか。私を信じて仰ぎますか」と問われているのです。

 主の問いかけに、常に「はい」と答えて、主の御言葉に日々耳を傾け、喜びをもって素直に従って行きたいと思います。

 主よ、私たちは置かれた状況、境遇によって心が変わります。キリストのみ、信仰のみに立つことが出来なくなります。どうか清い心、確かな新しい霊を授けてください。信仰に堅く立ち、絶えず主に目を向け、御言葉に耳を傾けることが出来ますように。アーメン