「また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。」 申命記27章7節

 1節に「モーセは、イスラエルの長老たちと共に民にこう命じた」と記されています。イスラエルの民に語りかける際に、モーセが「長老と共に」民の前に立つというのは、これまで前例のないことでした。

 原文は「そしてモーセとイスラエルの長老たちは命じた」という言葉遣いになっていますが(口語訳、新改訳参照)、イスラエルの長老たちが主から直接言葉を聞いたという場面はなく、また「命じる」(ツァーヴァー)には3人称単数形が用いられていることもあって、「と」を「共に」に変えて訳出しているわけです(岩波訳も)。

 モーセは、約束の地に入ることが許されてはいません。ですから、ここで命じたことを民が忠実に実行するかどうか、モーセ自身が確かめることが出来ません。そのために、長老たちがモーセと共に立ち、いわば立会人しての役割を果たしているというかたちです。

 ここで命じられているのは、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ったら、大きな石を幾つか立ててそれに漆喰を塗り(2節)、その上に律法の言葉をすべて書き記せというものです(3節)。因みに、ヨシュア記4章には、水の涸らされたヨルダン川を渡った記念に、ヨルダン川の石を取ってギルガルの地に立てたことが記されています。

 律法の言葉を石に書き記させるのは、その石碑を見る人に神の戒めを守るべきことを常に思い起こさせるという狙いがあるのでしょう。「律法の言葉をすべて書き記せ」(3節)と言われているということは、神がモーセを通じてお命じになった律法を、すべて守り行えというわけです。

 ただし、「律法の言葉をすべて」とは、5~26章に記されている掟と法のことだとすると、その分量の多さから、それを文字通りに実行するのは、とても大変なことではなかったかと思われます。

 恐らく、契約の箱に十戒の刻まれた石の板を納めたように(4章13節、10章4,5節)、律法のすべてを代表して「十戒」を石碑に記したのではないかと思われます。あるいは、「大きな石を幾つか立て」(2節)ということですから、重要な掟とされる5~11章を碑に刻んだのかも知れません。

 4節に「これらの石をエバル山に立て」なさいと言われています。エバル山について、以前、「あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい」(11章29節)と言われていました。それは、主の戒めに聴き従うならば祝福を受け、戒めに耳を傾けようとせず神に背く道を行くならば呪いを受けるということでした(同27,28節)。

 そして、エバル山には、石碑が建てられるだけでなく、祭壇も築かれることになります(5節)。それは石の祭壇で、鉄の道具を当てない(5節)、自然のままの石で主の祭壇を築くように命じられています。そのことについて、出エジプト記20章25節に「のみを当てると、石が汚される」と、その理由が説明されています。

 そこに焼き尽くす献げ物をささげ(6節)、また、和解の献げ物をささげます(7節)。和解の献げ物は、それをもって神に和解を求めるというよりも、罪赦され、和解の恵みに与った感謝の献げ物といった方がよいのでしょう。

 冒頭の言葉(7節)に「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」と言われています。レビ記によれば、和解の献げ物は、脂肪を燃やして煙とし、胸の肉と右後ろ足は祭司らのものとなり、それ以外の肉は、奉納者が神の御前で食することになっています(レビ記3章、7章11節以下)。和解の恵みに与った感謝の献げ物を、神と、そして仲保者たる祭司たちと共に喜び祝うわけです。

 これは、イスラエルの民が約束の地に入るということは、罪の赦しという神の恵みの賜物だということでしょう。赦しがなければ、だれ一人、約束の地に入ることが出来なかったのです。だからこそ、「主の御前で喜び祝いなさい」と言われるのです。

 私たちの罪を赦すために、神の御子、主イエスが贖いの供え物となられました(ローマ書3章24,25節、第一ヨハネ書2章2節、4章10節)。主の晩餐式では、裂かれたパンと、ぶどうから作られた杯をいただきます(マルコ14章22節以下など)。それは、キリストが体を裂き、血を流されたことを記念するものです(第一コリント書11章23節以下、ルカ22章19節)。

 そしてそれは、神の国での祝宴の先取りでもあります。というのは、主イエスが「神の国で新たに飲む日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14章25節)と仰っています。ここに、神の国で、主イエスと共にぶどうの実から作ったものを飲むときが来ることが約束されているといってよいでしょう。

 それは、どんなに大きな喜びでしょうか。言葉では表現出来ない喜びが爆発するときでしょう。主の晩餐式は、それを先取りしているのです。冒頭の言葉に「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」と言われているとおり、私たちの和解の献げ物として死んでくださった主イエスを記念する主の晩餐に与るとき、もっと喜ぶべきです。もっと神に感謝すべきです。

 私たちのささげる礼拝が、神を喜び祝う礼拝となるように、主の御言葉に耳を傾け、御旨に従い、日々豊かな祝福に与りましょう。

 主よ、計り知れない恵みに心から感謝します。罪赦され、救われ、神の子とされ、永遠の命に与りました。祈りが聞かれ、癒しや助けをいただきます。聖霊の力を受け、主の恵みを証しすることが出来ます。日々御言葉が開かれ、御旨を悟ります。御業のために用いてください。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン