「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。」 申命記24章19節

 新共同訳聖書は、5節以下の段落に「人道上の規定」という小見出しをつけています。特に、貧しく、弱い立場の人々に対する配慮が記されます。

 6節に「挽き臼あるいはその上石を質にとってはならない」という言葉があります。挽き臼全体を持って行くのが大変ということで、上石だけを質に取るということがあったのでしょう。挽き臼は穀物を粉に挽くために欠かせない生活必需品です。上石を持って行かれると、下石だけでは用をなさず困ってしまいます。

 金貸しとしては、そういうモノを担保に金を貸せば、すぐにそれを取り戻そうと、借りたお金を返済するのに必死になるだろうという考えがあるわけです。しかし、それは生活に困窮している人の生存そのものを脅かす行為として禁じられます。

 10,11節で「あなたが隣人に何らかの貸付をするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい」というのも、上記同様、困窮者を保護するために、貸主に都合の良いものを質に取ることを禁じているわけです。

 そこで、上着以外に担保となるものがないような貧しい人には、その日の内にそれを返せと言われます(12,13節)。それは、上着が夜具でもあるからです(13節)。17節の「寡婦の着物を質に取ってはならない」というのも同様です。

 恵まれない者に対してそのような配慮が命じられる根拠として、18節に「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」と告げられています。

 冒頭の言葉(19節)も、その関連で語られます(22節参照)。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない」というのは、レビ記19章9節の「穀物を収穫するときは、畑の隅まで駆りつくしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない」と同じで、落穂を拾うのは、貧しい人々が命を支える糧を確保する大切な手段でした。

 主イエス一行が麦畑を通られたとき、弟子たちが穂を摘んで食べたとき、それをファリサイ派の人から咎められましたが(ルカ6章1,2節)、それは「他人のものを盗ってもよいのか」ということではありませんでした。麦畑で穂を手で摘んで食べることは、貧しい者や旅人には許されていたわけです(23章26節参照)。ファリサイ派の人が問題にしたのは、「安息日」に収穫と食事の準備をしたことです。

 落穂拾いと言えば、ルツ記の記事を思い出します。モアブ人女性ルツは、ユダヤから移り住んできたエリメレクの息子と結婚しますが、その夫に先立たれ、姑ナオミが故郷ベツレヘムに戻るのに同行します(ルツ記1章)。ルツは早速落穂を拾いに行きますが、それは、たまたま姑ナオミの親戚ボアズの畑でした(同2章1節以下、3節)。ボアズは、異国人であり寡婦であるルツの身の上を知り(同2章5節以下)、厚意を示します(同8節以下)。

 そこに、申命記の戒めが忠実に守られた実例を見ることが出来ます。モアブ女性ルツに親切にし、やがて結婚したボアズとルツの間にオベドが生まれ、オベドからエッサイ、そしてエッサイからダビデが誕生します(ルツ記4章13,21,22節)。ボアズは、ダビデ王の曽祖父となったのです。

 幕末期の1865年7月、米国のA.ハーディーは、自分が所有している船(ワイルド・ローバー号)のボーイとして渡米して来た一人の日本人青年に目を留め、青年の志を知って自宅に引き取り、学問をさせるため全面的に援助します。青年は、ハーディーの感化でクリスチャンになり、大学を卒業して神学校で学んでいたとき、明治政府最初の外交官・森有礼と会い、その後、岩倉具視の遣米使節団の通訳として協力することになります。

 神学校を卒業し、宣教師となって帰国した青年が、日本の将来のためにと様々な困難の乗り越え、京都に同志社大学を建てます。この青年こそ、ご存じ、新島襄先生です。ハーディーが一人の寄留者に示した愛が、以後、大きな実を結ぶことになったのです。新島先生は、ハーディーをアメリカの父と呼び、自分のミドル・ネームに名前をもらってジョセフ・ハーディ・ニイシマ(Joseph Hardy Neesima)と称していたそうです。

 私たちも主イエスの恵みに与って神の子とされ、クリスチャン(キリストのもの)と呼ばれています。キリストに愛された愛をもって、互いに愛し合いましょう(ヨハネ15章12節)。主が手の業すべてを祝福してくださるからです。

 主よ、御子が私たちのために一切を捨ててこの世においでくださいました。それは御子の貧しさによって私たちが富む者となるためでした。神は、主を信じる私たちのためには、御子と一緒にすべてのものをお与えくださるのです。 ハレルヤ!アーメン