「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」 申命記17章18,19節

 まだ、約束の地に入ってもいないときに、主がモーセに対し、14節以下「王に関する規定」を伝え、命じています。約束の地を獲得したイスラエルの民が王を立てるように求めるのは、それから何百年も後のことです。

 サムエル記上8章によれば、まず、イスラエルの民が預言者サムエルに、「他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(同5節)と求めました。その理由を、「あなたは既に年をとられ、息子たちはあなたの道を歩んでいません」と説明しています。これは、まるでサムエルが仕えた祭司エリの家庭と同じです(同2章12節以下)。

 民の求めを聞いたサムエルには、王を立てることは悪しきこととと思われました(同8章6節)。他の国々のように王を持ちたいという要求は、目に見えない神よりも、見える王に頼りたいという思いの表れであり、それは、異教の神々を慕う思いと連なることになるからです。

 そのとき、主なる神はサムエルに「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」(同7節)と言われ、サムエルに同意しながらも、民が求めるとおりに王を立てることを承認しています。王を立てなければ民は神に忠実に従い、王を立てれば民は神に背くというものでもないからです。

 王に関する規定の中で「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」(14節)と、王を立てる理由を述べていることから、それはイスラエル周辺の王国をモデルにしていますが、そもそも王を立てることは、上記のとおり人間側にある願望であって、主がそれを許容されるにあたりその条件が提示されています。その意味で、ここにあるのはイスラエルにおける理想的な王の姿です。

 まず、「主が選ばれる者を王としなさい」(15節)と言われ、外国人は王の候補者から除外されます。それは、異邦人に対する偏見というより、主なる神のみを礼拝するという基本的な戒めに従おうとしない外からの宗教的勢力を排除する姿勢を明示したものといってよいでしょう。

 次いで、「馬を増やしてはならない」(16節)、「大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない」、「銀や金を大量に蓄えてはならない」(17節)と、主なる神に信頼せず、軍事力や冨、跡取りをもうけるシステムなどを整備してそれに頼ることがないよう禁止命令が告げられます。

 そして冒頭の言葉(17,18節)のとおり、「律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」と言われます。ここに、王の使命は軍事力や裁判の能力などでなく、イスラエルの民の模範として主を畏れ、御言葉に忠実に従うことであることが示されます。

 それゆえ、王は民の上に立てられるものですが(15節)、しかし、同胞を見下して高ぶることは許されません(20節)。その戒めから右にも左にも逸れることがないようにと忠告されています。このような規定がなされているのは、イスラエルに立てられた王が、主を畏れ、この戒めに従って民を治める道から逸れている例が数々あったからでしょう。

 ダビデの子ソロモンは、馬を増やすな、大勢の妻を娶るな、銀や金を大量に蓄えてはならないといわれた規定にことごとく反しています(列王記上10章14節以下、11章3節)。その結果、王国がソロモンの死後、南北に分裂し(同12章)、その子らも同様の道をたどって、ついに国が滅んでしまいました(列王記下17章、25章)。

 あらゆる知恵と知識に精通していた(同5章9節以下)ソロモンに欠けていたもの、それは、主なる神を畏れ、その御言葉に忠実に従う心です(列王記11章1節以下、9,10節)。主を畏れることを忘れたソロモンは、自分の博識を真に生かす術を失ってしまったのです。知ってはいても、従わないのであれば、知らないのと同じです。

 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1章7節)とは、そのことです。箴言の著者がソロモンだと言われていますので(同1節)、まさに、自らの振る舞いで、己が無知を表しています。

 あらためて、そうならないための規定が、冒頭の言葉(18,19節)です。「この律法の写しを作れ」を直訳すると、「自分自身のために、律法の写しを書く」という言葉です。王が自ら筆を取って書き写せば、その内容に精通することになるでしょう。そして、王はそれを手もとに置き、繰り返し読み返して主を畏れることを学び、御言葉と掟を忠実に守らねばなりません。

 以前に学んだとおり、この「律法の写し(ミシュネー・ハットーラー)」を、ギリシャ語訳旧約聖書(セプチュアジンタ=七十人訳)がデウテロノミオンと訳しました。「デウテロス」が第二、「ノミオン」が律法で、第二の律法という意味になります。「申命」というのは、重ねて命じるという意味で、デウテロノミオンの訳語なのです。

 旧約聖書の時代、紙は高価で一般人には手の届かないものでした。ですから、自分で聖書を持つのは不可能でした。イスラエルの国で、祭司と王が持っているだけだったのです。だから、祭司や預言者が王を指導し、王がそれを実践するという形で、聖書に記されている主の御心が民に伝えられたわけです。

 今日、私たちは聖書を自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、主を畏れることを学び、すべての言葉と命令を忠実に守ることが出来ます。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、本当に幸いです(詩編1編1,2節)。

 主はその人に、「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と約束されています(同3節)。

 たえず御前に謙り、繰り返し御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、あなたこそ生ける神です。あなたを畏れ、御前に謙ります。御言葉を聴かせてください。御心を教えてください。御言葉を忠実に守る信仰をお与えください。朝ごとに御前に出て、あなたを仰ぎ望みます。祈りを聞き届けてください。 アーメン