「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。」  申命記14章1節

 冒頭の言葉(1節)に「死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない」という禁止命令があり、その理由が「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と説明されています。ということは、カナン人たちが死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げるという宗教儀式を行っていたのでしょう。

 イザヤ書15章2節、エレミヤ書47章5節、ホセア書7章14節などとの関連から、イスラエルの民は後代まで、異教の慣習から離れることがなかったようです。だからこそ、ヨシヤ王(BC640~609在位)の時代に執筆されたと考えられる申命記に、禁止命令として記されているのです。

 続けて、「清い動物と汚れた動物」(3節以下)について記しているのも、同じような観点から、イスラエルの民を異教的な生活習慣から離れさせるための手引きだったものと考えられます。 

 あらためて、冒頭の言葉に「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」とあります。「主の子ら」(バーニーム・ラ・アドナイ)というのは、聖書中ここだけにしか出て来ない、とても珍しい表現です。

 ただ、32章5節の「もはや神の子らではない」は、原文を直訳すると「もはや彼の子らではない」で、「彼」は前節の「主」を受けていますから、意味をはっきりさせるなら、「主の子ら」となるところです。口語訳、新改訳はそのように訳しています。

 イスラエルの民を「神の子」と呼んでいるのは、旧約聖書中、詩編29編1節とホセア書2章1節だけです。それ以外に4回「神の子」が出て来ますが、創世記6章2,4節、ヨブ記38章7節とダニエル書3章25節では、天使というべき存在を、そのように呼んでいると考えられます。

 もう一箇所、申命記32章8節にも「神の子らの数に従い」とありますが、原文には「イスラエルの子らの数に従い」(レ・ミスパル・ブネー・イスラエール)と記されていて、口語訳、新改訳は正しく訳しています。

 岩波訳も「イスラエルの子らの数に従って」と訳していますが、脚注に「マソラ本文の校訂者は『神の子らの数に』と読み替えることを示唆。70人訳は『神の御使いたちの数に』」と記されていました。新共同訳は、それに従って「神の子ら」(ブネー・エール)と読み替え、訳出したようです。

 また、主なる神がイスラエルの民を「わたしの子」と4回呼んでいます(出エジプト記4章23節、詩編2編7節、イザヤ書45章11節、エゼキエル16章21節)。そして、ダビデを指して「わたしの子」と呼ぶ例が2回(サムエル記下7章14節、歴代誌上17章13節)、ソロモンのことを「わたしの子」と呼ぶ例が2回(歴代誌上22章10節、28章6節)あります。

 ところで、イスラエルの人々が自ら積極的に「わたしは神の子です」と宣言する箇所、そのように信仰を告白することは、旧約の時代にはありませんでした。そういう人がいれば、それは神を冒涜することとして、神に打たれることになったでしょう。

 その意味で、イスラエルの民一人一人を指す言葉として、「あなたたちは、主の子らである」と言われているところ、そして、個人を指して、「わたしの子」と呼ぶ例は、新約聖書の信仰につながってくるところです。

 新約聖書では、「神の子」あるいは「御子」が120回ほど出て来ます。大半、神の御子イエス・キリストを指して用いられますが(マルコ1章1節など)、20回ほど、主イエスを信じる者を指して用いられます(ヨハネ1章12節など)。また、平和を実現する人々が神の子と呼ばれ(マタイ5章9節)、使徒言行録17章29節は、アテネの人々を含め全人類を神の子孫としています。

 言うまでもなく、私たちは人間から生まれた人間の子であって、イエス・キリストと同じ神の子ではありません。神の子だから、主イエスを信じることが出来たというわけでもありません。

 イエス・キリストが私たちの罪の贖いの供え物として、十字架に死んでくださり、私たちに命を授けてくださるという一方的な恵みによって、神の子としていただいたのです。神の深い憐れみなしには、私がどんなに逆立ちしても、神の子になれるはずはないからです。

 ということは、「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と言われているのは、憐れみ深い神の一方的な恵みの宣言ということになります。そして、イスラエルの民が神の子とされたのは、すべての者に神の恵みが証しされるためでした。アブラハムが祝福の源とされ、アブラハムによって地上のすべてが祝福に入ると言われているからです(創世記12章2,3節)。

 主イエスを信じる信仰によって、神の子として頂いた私たちも、「主の聖なる民」であり、「地の面のすべての民の中から」、神の「宝の民」とされた者です(2節、一ペトロ2章9節)。

 私たちは土の器に過ぎませんが、内側には永遠の宝を宿しています(二コリント4章7節)。主イエスが内にいて下さるからこそ、宝の民なのです。主のものとされたのですから、主の恵みに感謝して、その愛の御業をあまねく宣べ伝えましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私たちを憐れみ、神の選びの民に加えてくださったことを感謝します。私たちの内に宝なる主がおられます。主に愛されている僕として、いつでも主の恵みを証しし、キリストの福音を宣べ伝える者となることができますように。聖霊の満たしと導きに与らせてください。そして、多くの人々が豊かに恵みを受けられますように。 アーメン