「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」 民数記24章17節

 1節に「バラムは、イスラエルを祝福することが主のよいとされることであると悟り、いつものように、まじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた」とあります。荒れ野に宿営しているイスラエルの民を眺めていると、神の霊がバラムに臨んだのです(2節)。まるで、バラムがイスラエルの主なる神の預言者であるかのような表現です。

 確かに、23章で主の託宣を受ける際には、「主は、バラムの口に言葉を授け」(23章5節)、「主はバラムにあい、彼の口に言葉を授け」(同16節)と言われていました。

 バラムは4節で「神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者、倒れ伏し、目を開かれている者の言葉」と述べています。今ここに私利私欲を離れ、また呪いなどによらず、主なる神に目が開かれて預言を語るというのです。まさにバラムは「イスラエルを祝福することが主のよいとされることであると悟り」、それによって祝福を受けているのです。

 4節の「倒れ伏し」というのは、神の霊の力によって、神に従うこと以外の道がすべて閉ざされた、もはや神の前に無条件降伏だという表現でしょう。そしてそれは、バラムにとって屈辱などではありません。「いかに良いことか、ヤコブよ、あなたの天幕は、イスラエルよ、あなたの住む所は」(5節)と祝福するところに、その喜びが言い表されています。

 しかしながら、イスラエルを呪うために招いたはずの預言者バラムが、このように再三祝福を語るのを聞いて、モアブの王バラクは激しく怒り(10節)、「自分のところに逃げて帰るがよい。お前を大いに優遇するつもりでいたが、主がそれを差し止められたのだ」と告げます(11節)。ぐずぐずしていれば、罰を与えるぞという脅迫です。

 当初、報酬に目がくらんでいたバラムですが(22章31節以下)、王バラクの脅迫に対して「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、わたしの心のままにすることはできません。わたしは、主が告げられることを告げるだけです」(13節、22章18節)と答えます。

 王の言葉に怖気づくどころか、却ってその感情を逆なでするかのように、「あなたに警告しておきます」(14節)とさえ告げています。そうして15節以下、第4の託宣を述べます。

 そこに、今バラムが見ている幻が語られます。それは、冒頭の言葉(17節)に見るとおり、「彼」、「星」、「笏」として語られている、イスラエルに優れた指導者が出現するという預言です。しかし、それは、既に存在しているとか、すぐに登場して来るということではありません。「今はいない」、「間近にではない」と言われているからです。

 特に、「笏」は王権を示すものであり、「星」もその栄光と輝きを表わしています(黙示録22章16節も参照)。イスラエルの王として登場して来る人物が、「モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕」きます。「シェト」について、18節の「エドム」と「セイル」は同じ意味であることから(創世記32章4節)、これはモアブのことを言っていると考えてよいでしょう。

 サムエル記下8章2節に「(ダビデは)モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄で測り、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた。モアブ人はダビデに隷属し、貢を納めるものとなった」と記されています。

 勿論、バラムはダビデのことを知って、そのように預言したわけではないでしょう。いつしか、一人の優れた王が登場してきて、モアブを討つと語ったわけですが、それがダビデ王の代に実現することになるわけです。

 それは、バラク王がバラムを召した際に「あなた(バラム)が祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたし(バラク)は知っている」(22章6節)と伝えさせていたとおり、バラムを通して語られた祝福がイスラエルに臨み、イスラエルを呪わせようとしたその呪いがモアブに臨んだということです。

 それはまた、バラムがイスラエルを祝福して「あなた(イスラエル)を祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる」(9節)と語っていたことでもあります。イスラエルを祝福するバラムは祝され、イスラエルを呪わせようとしてそれに従わなかったバラムを脅迫したモアブに、主の呪いが及ぶのです。

 アブラハムは祝福の源となるように召され、祝福を受けました(創世記12章2,3節)。信仰に生きる者こそ、アブラハムの子だとパウロは言いました(ガラテヤ書3章7節)。主イエスを信じる信仰に生き、アブラハムの子とされた私たちは、祝福の源となるように召されたのです。

 ペトロも、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱の報いてはなりません。かえって、祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ3章9節)と記しています。

 主の御前に謙り、日々その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 主よ、世界にキリストの平和が実現されるため、命を愛し、舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願ってこれを追い求めます。世界から貧困や虐待、差別、迫害などがなくなりますように。国々の指導者たちをはじめ、上に立つ者たちを祝福し、神の平和の御心を実現する者としてください。 アーメン