「バラムは主の御使いに言った。『わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します』。」 民数記22章34節

 22~24章は、「バラクとバラム」について記されています。モアブ人の王ツィポルの子バラクは(4節)、おびただしい数のイスラエルの民が近づいて来るのを見て恐れをなし(2,3節)、「ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラム」(5節)を招き、イスラエルを呪ってもらおうと考えました(6節)。

 21章27節以下に、モアブがアモリ人の王シホンに滅ぼされ、捕虜となったという歌が記されています。アモリ人の勝利を祝う歌がそこに記されているのは、モアブ人に勝ったアモリ人をイスラエル人が打ち破ったからです。モアブに勝ったアモリ人を打ち破ったイスラエルが、いかに強いのかということを強調しているわけです。

 それによって、モアブの王バラクがイスラエルの民を恐れるのは、当然の成り行きだということを示しているのです。そこで、バラクは、長老たちを使者として礼物を持たせ、イスラエルに呪いをかけることを依頼するために、遠路はるばる預言者バラムのもとに遣わします(7節)。

 しかし、バラムが主の前に伺いを立てると(10,11節)、主は「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」(12節)と答えられました。それでバラムは、バラク王の使者に断りを告げます(13節)。

 バラク王は使者が役不足だったかと考えて、次には政府高官を派遣し(15節)、「あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします」(17節)と、まるで、白紙の小切手を渡して、好きなだけの金額を書き込みなさいといわんばかりの招き方をしました。

 バラムは「たとえバラクが、家に満ちる金銀を送ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」(18節)と言いつつ、もう一度神の前に出ます。すると、先には「彼らと一緒に行ってはならない」と言われた神が、「立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」(20節)と、方針を転換されました。

 「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった」と22節に記され、抜き身の剣を手にした主の御使いが、妨げる者となって道に立ちふさがります。「妨げる者」は「サタン」という言葉です。これは、どのように考えたらよいのでしょうか。

 ヨブ記1,2章で、サタンは天上における主の御使いたちの集いに、ヨブの告発者として登場しています。その意味で、単に道をふさいで邪魔していたというのではなく、ヨブを有罪として告発するために立ちふさがっていたわけです。

 23節以下の「バラムとろば」のやり取りは大変ユーモラスです。ろばが主の御使いを避けて道を逸れ、端に寄り、うずくまると、バラムは理由が分からず、ろばを打って思い通りに進ませようとします。バラムに三度も打たれたろばが口を開いて、バラムに抗議します。

 その時、主がバラムの目を開き、主の御使いを目にして、ひれ伏します(31節)。32節の主の御使いの言葉は難解です。「あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来た」という新共同訳の訳し方では、主の御使いがバラムを危険から守るために出て来たと読めます。

 けれども、それでは33節の「ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう」という言葉と合いません。守るために出て来たと言う主の御使いが、バラムを殺していたであろうというからです。

 「あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから」を、新改訳は「あなたの道がわたしとは反対に向いていたから」、岩波訳は「この道が、わたしの意に反する、堕落させる者だから」と訳しています。つまり、主の御使いが抜き身の剣をもって道をふさぎ、その道から逸れさせようとしていたと解釈される訳し方です。
 
 それにしても、ろばに見えた主の御使いが、預言者に見えなかったというのは、皮肉なことですね。それは、「立って彼らと共に行くがよい」(20節)という神の御告げに従った行動でしたが、バラムは「あなたを大いに優遇する。言われることは何でもします」(17節)という報酬の大きさに目がくらんでいたということだったのでしょう。

 最初に「一緒に行ってはならない、呪ってはならない」(12節)と告げられてたのですから、再度やって来た使者のために改めて託宣を求めているのは、その際に持ちかけられた報酬に、バラムの心が動かされていたという証拠でしょう。このようにバラムの心の内にあるものを、主の御使いが「妨げる者=サタン」となって告発しようとしていたわけです。

 新約聖書において、使徒ペトロが「バラムは不義のもうけを好み」(第二ペトロ書2章15節)と記し、主イエスの弟ユダも「金もうけのために『バラムの迷い』に陥り」(ユダ書11節)などと語っていて、バラムの行動が金儲けのためだったと指摘しています。

 主によって目が開かれ、抜き身の剣を持った主の御使いを見たバラムは、すっかり肝を潰して、冒頭の言葉(34節)を語りました。主の御前に、自分がろばよりも劣る者であることが明らかにされ、それゆえ、バラムが預言者であるのは、彼の能力によらず、主が彼を預言者として用いようとされているからだと、繰り返し教育されたのです。

 だから、「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」とバラムが言うのに対して主の御使いは「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(35節)と、先の託宣と同じことを告げます。

 ここに主なる神は、バラムをイスラエルを呪う呪(まじな)い師としてでなく、イスラエルを祝福する主の預言者として召し、モアブの王バラクのもとに遣わそうとされているのです。そのときにバラムが報酬などに心惑わされてしまわないように、主の御使いによって、しっかり釘を刺されたわけです。

 私たちも、置かれている状況や得られる利益、自分の目で見える行く末などに惑わされず、しっかりと御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みたいと思います。

 主よ、知恵と啓示の霊を賜り、神を深く知ることが出来ますように。心の目が開かれて、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、そして、私たちに対して絶大な働きをなさる神の力だどれほど大きなものであるか、悟らせてくださいますように。 アーメン