「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」 民数記21章9節

 イスラエルの民は、祭司アロンが息を引き取ったホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回しながら、モアブの地を目指します(4,10節以下)。エドムを迂回するのは、領内を通過する許可が下りず、かえって強力な軍勢で迎え撃つと警告されたからです(20章14節以下、18節)。

 そこで、迂回路を進むほかなかったというわけですが、民は途中で耐えられなくなり(4節)、神とモーセに、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか、パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(5節)と文句を言います。

 女預言者ミリアムや大祭司アロンを失って、この先、どうなるのかという不安が広がったのでしょうか。また、カデシュからネゲブに進んで来たのに、逆戻りするように南下して反時計回りにエドムを迂回するルートを進むのは、いつになったら約束の地につけるのかという思いにさせたことでしょう。その上、パンや水の蓄えもないという現実に、不満が出るのもやむを得ないという状況ではあります。

 しかしながら、彼らが「こんな粗末な食物」(5節)と呼んでいる「マナ」は、神が彼らのために提供されたものです(出エジプト記16章)。民は何の苦労もなく、毎朝それを集め、食事をすることが出来ているのに、あからさまに不平を言うということは、民の間に神への畏れや感謝の心が失われている証拠です。

 主はそういう民の不満の言葉を聞いて、炎の蛇を送られました。蛇が民を噛んだので、多くの死者が出ました(6節)。「炎の」(サーラーフ)という形容詞は、蛇の毒で燃えるような感覚を覚えることを表わしているそうです。また、火は神の裁きを示すものですから、神の憤りを表現するものとして、「炎の蛇」という表現が用いられたのではないでしょうか(11章1節参照)。

 民はモーセのもとに来て、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って蛇を取り除いてください」(7節)と罪を告白し、執り成しの祈りを要請します。ここ以外で民が主に背いた罪を告白したのは、約束の地を偵察した後、その地を悪く言って民の心をくじいて主の怒りを買い、不平を言った者は約束の地に入れないと宣告されたときだけです(13章1節以下、14章40節)。

 「我々は誤っていた」(14章40節)と言いましたが、それはしかし、二度と主に背かず、御言葉に聴き従うという意味ではありませんでした。「荒れ野に向かって出発しなさい」(同25節)と告げられていたのに、「主が約束されたところへ上って行こう」と言い、「どうして主の命令に背くのか。成功するはずがない」(同41節)というモーセの警告を無視して行動したからです(同44節)。

 ここで改めて、民の悔い改めの姿勢が問われます。モーセが民のために祈りをささげると、主は「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)と言われました。血清を造らせて民を癒したとか、神の力で蛇を消滅させるというような方法ではなかったのです。

 なぜ、竿の先に掲げられた炎の蛇を見上げるだけで、助かるというのでしょうか。勿論、そこに科学的な根拠などあるはずがありません。竿の先に掲げられた蛇が毒を消すのではなく、神がそれをなさるのです。しかしながら、神は民に信仰を要求し、御言葉に従うかどうかを試されました。

 冒頭の言葉(9節)のとおり、モーセは青銅で蛇を造り、それを旗竿の先に掲げました。「蛇」は「ナーハーシュ(nachash)」、「青銅」は「ネホーシェト(nechoshet)」という、非常によく似た単語で、いわゆるダジャレのようになっています。

 旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見た人は命を得ました(9節)。そんなばかばかしいことは出来ないと考えて蛇を見上げなかった人は、命を落としたことでしょう。即ち、旗竿の先に掲げられた蛇に人を癒す力があるのではなく、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)と言われた神を信じ、御言葉に従う者に、その恵みが与えられるのです。

 後に、主イエスがこの出来事を律法学者ニコデモとの対話の中で取り上げて、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章14~15節)と言われました。「人の子も上げられる」とは、十字架につけられることであり、また、甦られた後、天に上げられることでもあります。

 炎の蛇が罪を裁いて民に死をもたらし、竿の先に掲げられた蛇によって民に命を得させたように、十字架は罪の裁きの場であると同時に、主イエスを信じる者に罪の赦しと永遠の命を与える救いの場なのです。

 主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれます(ルカ福音書9章23節)。先立って歩まれる主イエスを絶えず拝しながら、日々、十字架を背負って主に従って参りましょう。

 主よ、神を畏れず、感謝を忘れた者たちは、不平不満に満たされ、やがて死を招きました。しかし、悔い改めて御言葉に従い、十字架の主を拝する者は命を得ました。弱い私たちを助け、常に信仰をもって主を仰がせてください。あなたこそ、主であって私たちを癒す方だからです。御名が崇められますように。 アーメン