「祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができる。しかし、祭司は夕方まで汚れている。」 民数記19章7節

 19章は、「清めの水」を取り上げています。それは、9節では、「罪を清める水」と言われますが、11節以下で、特に死者に触れて汚れた者を清めるための水とされています。

 ここに、清めの水が取り上げられたのは、キブロト・ハタアワで疫病に打たれた人々をはじめ(11章31節以下)、カナンの地を偵察して悪い情報を流した者たち(14章36節以下)、レビ人コラやその仲間250名の指導者たち(16章参照)、そしてモーセとアロンに逆らって不平を言い、疫病に打たれた14,700人もの人々(17章6節以下)と、宿営内に死者が多数生じたからです。

 その葬りがなされたことを考えると、死者に触れずにすんだ者の方が少なかったのではないでしょうか。そこで、宿営全体をその汚れからいかに清めるのかという問題が出て、この定めが与えられたのでしょう。

 まず、赤毛の雌牛を宿営の外で屠り(2,3節)、その血を臨在の幕屋に向かって振りまきます(4節)。「正面に向かって」と言われますから、幕屋から東方、ユダ族を中心に宿営している地域の外側だろうと思われます。

 それから、その雌牛を焼きます。ここで、「皮も肉も血も胃の中身も」焼くという表現は、他に例がありません。というのは、焼き尽くす献げ物でも、血は祭壇の側面に注ぎかけられ(レビ記1章5節)、内臓は水洗いされるので(同1章9節)、血や胃の中身が共に焼かれることはないからです。すべてを焼き尽くして神にささげるということで、清めにつながるのでしょう。

 次いで、牛を焼いている火の中に、杉の枝、ヒソプ、緋糸を投げ込みます(6節)。これらは、重い皮膚病を患った人を清める儀式でも用いられています(レビ記14章6節)。それらのものが、汚れを清める力を持っていると考えられているのでしょう。

 そうして、その灰を集め、宿営の外の清い場所に保存します(9節)。その灰を容器に入れ、新鮮な水を加えると(17節)、それが清めの水となります。そして、その水にヒソプを浸し、死者に触れて汚れた人々などに振りかけて、汚れを清めます(18節以下)。

 この清めの水に関して、よく分からないのが、その作業に関わる人々がみな汚れると言われることです。冒頭の言葉(7節)で、雌牛を屠った祭司エレアザルが夕方まで汚れると記されています。汚れを身に受けることになるので、大祭司アロンではなく、息子の祭司エレアザルがこの儀式を任せられているものと思われます。

 これはまだ、屠られた雌牛とその血に触れたからと考えてもよいのですが、その灰を集めた者も汚れていると言われます(10節)。その灰は、罪を清める水を作る材料として集められたものだから、むしろ、その作業に携わる者は清くなると言われてもよさそうです。

 究めつけは、清めの水を振りかける人、その水に触れた者も汚れるとされるところです(21節)。人を清めるための水に触れて、その水を人に振りかけて、どうして汚れると言われるのでしょうか。水に触れた者が汚れるのであれば、水を振りかけられた人の罪がどのようにして清められるというのでしょうか。そのメカニズムは、全く理解不能です。

 ただ、私たちの罪のため、主イエスが贖いの供え物となられたということを考えると、少し見えてきます。神が罪を赦すと言えば、それで罪が清められるというのではなく、清い神の御子が私たちの汚れをその身に引き受けられることで初めて、私たちは清い者とされるのです。

 「善いサマリア人」の例え話で(ルカ福音書10章25節以下)、サマリア人は、追いはぎに襲われた人を見て憐れに思い(同33節)、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました(同34節)。

 翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」(同35節)と言いました。このサマリア人が、追いはぎに襲われた人の「隣人になった」人だと、主イエスは教えられます(36節参照)。

 そして、主イエスこそ、この例え話のサマリア人のモデルとなられたお方です。主イエスは、罪人の罪を自分の身に負ってその汚れを引き受け、罪そのもののようになられました(第二コリント書5章21節)。それによって私たちは清められたのです。主の打たれた打ち傷により、私たちを癒し、清め、解放し、自由の身にしてくださったのです(第一ペトロ書2章24節、ガラテヤ書5章1節)。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を得させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ書5章13,14節)。

 主よ、私たちは傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によって贖われました。それは、あなたの一方的な愛でした。真理なる主イエスを信じて魂が清められた者として、聖霊によって心に注がれる神の愛に満たされて、感謝と喜びをもって互いに深く愛し合うことを学び、実行する者とならせてください。 アーメン