「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を焼き尽くそうとした。」 民数記11章1節

 シナイ山のふもとからおよそ1年ぶりで旅立ったイスラエルの民は(10章11節)、次にパランの荒れ野に留まります(同12節)。男だけで60万、全部で200万を越える人々が、シナイ山のふもとの荒涼たる荒れ野で1年を過ごしたということ自体、奇跡以外の何ものでもありません。神が水や食物などを与えられたからです。

 ところが、冒頭の言葉(1節)にあるように、民は神への不満を爆発させました。それが、どんな不満であったのか、そこに記されてはいませんが、4節で、「他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った」というのですから、空腹や喉の渇きから来たものだったのではないかと推測されます。

 イスラエルの民は、荒れ野で既に一年以上過ごしています。ようやく旅立ったと思ったら、歩みを進めて行くところも宿営する場所もまた荒れ野。乳と蜜の流れる約束の地に近づいているという実感がありません。むしろ、本当にそこに行き着くのかという、指導者モーセや主なる神に対する不信の思いから発せられた不満なのかも知れません。

 感謝と喜びをもって主に従うべきイスラエルの民が、その恩を忘れて不平を言うのに対して、主は激しく憤られました。ここで、「憤る」は、「鼻が熱くなる」という言葉です。鼻が熱くなって、荒い鼻息と共に火を噴出したということでしょうか。主の火が燃え上がって、宿営を焼き尽くそうとします。

 旧約聖書において、火は神の臨在のしるしであり(出エジプト3章2節以下、13章21,22節)、また罪に対する憤り、神の裁きを表わします(レビ記10章2節、申命記4章24節)。そして、火は清める神の力をも示します(イザヤ6章7節、マラキ3章2,3節)。罪を裁いて焼き払い、汚れたものを清めるのです。

 それを見た民は、慌ててモーセに助けを求めます。神への執り成しを願ったのです。民はかつて、食べ物がない、飲み水がないとモーセに不平をぶつけたことがありますが(出エジプト記15~17章)、しかし、彼らはモーセが神の人であると認めていたわけです。そして、モーセが主に祈ると、火は鎮まりました。神がモーセの祈りを聞かれたのです。

 この経験で、民がすっかり神の前に謙り、その恵みに感謝して不平不満がなくなったというのではありません。彼らは、恩知らずにも、自分たちが奴隷として酷使されていたエジプトの方がましだったと言い始めます。即ち、「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」(5節)というのです。

 それは、彼らの食物が、マナしかないという状況だったからです(6節)。しかしそれは、神が天から降らせたパンでした(出エジプト16章4節)。イスラエルの民は、それを集めさえすればよかったのです。しかも安息日の前日には、二日分が与えられるという配慮の行き届いた給食でした。

 モーセは、どの家族も泣き言を言っているのを聞きます。それに対して、主の激しく憤られます(10節)。民の不平と主の憤りの板挟みとなったモーセは、「あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか」(12,13節)と尋ねます。

 さらに、「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことは出来ません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください」(14,15節)と訴えています。

 主なる神はモーセの訴えに応え、モーセに授けられている霊の一部を取り、民の長老の中から集められた70人に授けられました(16,17,24節以下)。それによって、モーセの重荷を70人の長老が共に負うことになりました。

 また、主が民に一ヶ月の間肉を与えて食べさせると言われ(18節以下)、モーセはそれをにわかに信じることが出来ませんでしたが(21,22節)、「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう」(23節)と言われ、風を起こしておびただしい数のうずらの群れを宿営地に落とされました(31節以下)。

 民は2日間にわたり、出来るだけ多くのうずらを欲深く集めました(32節)。「少ない者でも十ホメルは集めた」と言われますが、ホメルは容積を示す単位で、1ホメルは230リットルに相当します。10ホメルは2300リットル(2.3立方メートル)です。

 彼らは集めたうずらを宿営の周りに広げ(32節)、食べ始めます。しかし、それを飲み込む前に主は「激しい疫病」で民を打たれました(33節)。神に打たれた死者がそこに葬られたので、そこは「キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)」と名付けられました(34節)。

 しかるに、彼らはこの後も相変わらず不満を鳴らし、モーセたちを非難し続けます(12章2節以下、14章1節以下、16章、17章6節以下、20章2節以下など)。そのような不従順の結果、彼らは、約束の地に入ることが出来なくなってしまいました。

 「だから、神の安息に与る約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったからです」(ヘブライ書4章1,2節)。

 恵みの御手のもとに留まり、感謝と喜びをもって御言葉の導きに従いましょう。

 主よ、「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」にならないように、絶えず憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づかせてください。怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐことが出来ますように。 アーメン