「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目であって、それはあなたたちが代々にわたって守るべき不変の定めである。」 民数記10章8節

 イスラエルの民は、いよいよ約束の地カナンに向かって進軍を始めます。「シナイ出発」(11節以下)について、「第二年の第二の月の二十日のことであった」(11節)と言われています。

 エジプトを脱出したときを記念して第一年の正月としたので(出エジプト記12章2節)、それからこれまで1年余りが経過しています。また、シナイの荒れ野に到着したのが3月1日でしたから(同19章1節)、あと11日で丸一年そこに留まっていたということです。

 「エジプトの国を出た翌年の第二の月の一日」(1章1節)に、人口調査が命じられました(同2節)。そして、全軍の宿営の配置、進軍の際の配置が決められました(2章)。
その配置に従い、ユダ族から出発します(13節以下)。

 その際、モーセは「義兄にあたるミディアン人レウエルの子ホバブ」(29節)に動向を求めます。ミディアン人は荒れ野に住む民族なので、荒れ野を旅する際の専門知識や約束の地カナンを目指すための道案内を願ってのことでしょう(31節)。

 最初、ホバブはそれを拒みますが(30節)、「一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします」(31節)というモーセの約束の言葉に、肯定的に応じたものと思われます。士師記1章16節、4章11節に、ホバブの子孫がイスラエルの民と共に約束の地カナンに住んでいることを述べているからです。

 「義兄にあたるミディアン人レウエルの子ホバブ」(29節)について、原文は「ホバブ、レウエルの子、ミディアン人、モーセの義父」とあって、ホバブがモーセの義父だといっていることになります。新共同訳は、「義父」(ホーテーン)を「義兄」(ハータン)と読み替えているのです。

 なお、出エジプト記2章16,18節によれば、モーセの義父はミディアン人の祭司レウエルですが、同3章1節、18章1,2節では名はエトロです。同4章18節では「エトロ」とされていますが、原文では3章1節などとは単語が異なっています。どう考えたらよいのか、正確なところは全く分かりません。

 主なる神は、シナイを出発し、荒れ野を旅する準備として、モーセに銀のラッパを2本作らせます(2節)。それは、音色の違うもの、つまり長さや大きさの違うラッパだったと思われます。音色が違っていなければ、二本ともが吹かれているのか、一本だけなのか、区別が難しいからです。

 というのは、二本とも吹かれれば民全体、一本だけだと部族の長である指導者が招集されることになっており(3,4節)、その区別がつかなければ、民は混乱してしまいます。

 そのような、民を招集するラッパとは別に、出陣ラッパもありました。それは、旅立ちのとき(5節)、また敵を迎え撃つときに吹かれました(9節)。召集ラッパと出陣ラッパの吹き方はどんなものであったのか、色々説がありますが、概ね、召集には長く1回、出陣には短く数回吹き鳴らされたということのようです。

 パウロが、「ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(第一コリント14章8節)と言っていることから、ラッパの吹き方やその音色について、当時の人々は訓練され、よく理解していたのであろうと思われます。

 また、パウロは民を招集するためのラッパを、最後のときの合図に用いられるとも記しています。第一コリント15章51節以下では、そのラッパが鳴ると、主にあって召された者は復活して朽ちない者とされ、そのときまで生きている者は、一瞬にして栄光の姿に変えられると言います。

 また第一テサロニケ4章16節以下でも、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られ、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、生き残っている者は空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられると言っています。

 黙示録8,9章では、七人の天使が吹くラッパで大きな災いが天地に起こります。しかし、「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった」(同9章20節)、「また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった」(同21節)と言われるので、その災いは、神の敵に対する攻撃、審判であったことが分かります。

 即ち、これらのラッパは単なる合図なのではなく、神の権威がそこに表わされていると見ることが出来ます。

 だから、冒頭の言葉(8節)にあるように、「ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目」であり、「代々にわたって守るべき不変の定め」なのです。祭司たちは、神の御旨を知って民を集め、あるいは、旅立ちのラッパを吹きます。また、敵を迎え撃つ備えをさせます。

 特に、敵を迎え撃つ出陣ラッパは、主なる神に助けを求めるものでもありました。出陣ラッパが吹かれると、「主の御前に覚えられて、敵から救われるであろう」(9節)と言われています。主ご自身が立ち上がってくださり、イスラエルのために戦って勝利をお与えくださるというのです(歴代誌下13章12,14節)。

 「主の御前に覚えられる」という表現が、出陣のときだけでなく、祝日や毎月一日にささげる献げ物に向かってラッパを吹くというところでも用いられます(10節)。感謝のしるし、神を賛美するために吹かれるかのようです。

 そうしなければ、神が覚えてくださらない、忘れておしまいになるというのでしょうか。なぜそうなのか明言されていませんが、それは、イスラエルの民を子ども扱いはしておられないということでしょう。

 民の必要については、求められる前から神はご存知です(マタイ6章8節)。敵に襲われたとき、助けを必要としているでしょう。しかし、ラッパが吹かれ、助けが求められるまで、神は待っておられるのです。また、献げ物に感謝と賛美を添えること、即ち、心から感謝を込めて、賛美の心で献げ物をすることが求められているのです。

 さらに、私たちは本来、神に覚えて頂く資格も権利も持ち合わせていないということではないでしょうか。勿論神は、絶えず私たちに心を留めておられるでしょう。覚えていてくださるでしょう。むしろ、私たちの方が神を忘れ、その教えに背いてきたのです。

 調子のよい時には神を忘れ、自分勝手に歩んでいて、上手く行かなくなると、「私たちを覚えてくださらないのですか」と訴えるというのは、あまりに虫のよい話ではありませんか。

 その意味で、ラッパは神への悔い改めの祈りであり、祭司が民に代わって神の御前に謙り、憐れみを求めて吹かれるのです。神は、焼き尽くす献げ物などではなく、打ち砕かれ悔いる心を求めておられるのです(詩編51編19節)。

 主よ、御言葉を感謝します。私たちのことを手のひらに刻み、愛をもって髪の毛一本までも数えるほどに常に目を留めていてくださることを嬉しく思います。今、弱さの中にいる方々、痛み、苦しみを負っておられる方々を顧み、癒しと助け、慰めと平安をお与えください。互いに助け合う心を導いてください。御心が地の上に行われますように。私たちを御言葉と聖霊をもって清め、整え、主の御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン