「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。」 民数記1章1節

 今日から、民数記を読み始めます。民数記は、モーセが書いたと言われている5つの巻物の4番目のものです。「民数記」という書名は、イスラエルの民の数を数える記事が2度出てくるところから、つけられています(1章、26章)。

 ヘブライ語原典では、「ベ・ミドゥバル」と呼ばれます。これは、「ベ」が in 「~の中で、~において」、「ミドゥバル」は wilderness 荒れ野」です。「荒れ野の中で、荒れ野において」というのが、民数記の原題です。これは、冒頭の言葉(1節)で、「荒れ野にいたとき」(ベ・ミドゥバル)が、そのまま書名になったものです。

 荒れ野は、ものが満ちあふれ、生きていくのに困らないというようなところではありません。水がない、食べ物がない。死と隣り合わせといっても過言でない、瞬間瞬間生存が脅かされるという場所です。民数記は、イスラエルの民がその荒れ野において、40年におよぶ生活をしたときの出来事を記しているのです。

 何故主なる神は、イスラエルの民を荒れ野に導かれたのでしょうか。これがこの書のテーマです。ここから、いくつかのことを学ぶことが出来ると思います。

 まず第一に、頼るものが何もないところで、神に頼るということを学びました。イスラエルの民の宿営の中心に神の臨在の幕屋が置かれ、そこでモーセが神の言葉を聴きます。イスラエルの民にとって、神が共におられる、そば近くにいてくださるということです。

 呼べば答える、会おうと望めば、お会いくださる。そんな近くに神がおられるということです。何はなくても、すべてのものを創り、支えておられる神がご一緒におられるのです。私たちに必要なものは何でもお与え下さるお方が、常にそば近くにいてくださるのです。

 パウロは、神が味方となって下さるので、私たちは何者に対しても、圧倒的な勝利者でいられると語っています(ローマ8章31節以下)。

 第二に、イスラエルを神の民として訓練するためです。神は愛する子を鞭打ち、訓練されます。栄冠を得たければ、だれよりも厳しい訓練を受ける必要があるでしょう。

 主イエスも、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられ、聖霊の力を頂いて公生涯にお入りになるとき、聖霊に荒れ野に導かれて、40日の間何も食べずに悪魔の試練を受けられました(マタイ福音書4章1節以下)。それは、何よりも神の御言葉を信頼する試練でした。そして、主はこの訓練において、悪魔に勝利されたのです。

 第三に、神の恵みを学び、味わうことです。神は戦に出ることの出来る男性の数を数えるように命じられました。その命令に従って兵士の数を数えてみると、約60万人でした(1章)。

 かなりの年数がたち、神が改めて兵士の数を数えさせられます(26章)。それは、最初に数えられた兵士たちのほとんどが死んでしまったからです。2回とも、その数に入ったのは、わずか2名だったのです。すっかり世代が交代してしまいました。

 しかし、2度目に数えた兵士の数は、最初に記されている兵士の数とほぼ同数です。40年の荒れ野の放浪生活でも、イスラエルは数を減らすことがなかったのです。

 民は、荒れ野の生活で神や指導者モーセに対して、決して忠実、従順ではありませんでした。いつも不平ばかり、不満ばかりを語っていました。けれども、神はその都度、忍耐と寛容をもって彼らの願いに答えられました。嘆き、呻きに神が答えられ、祈りが聞かれるという経験、これは、神の恵み、憐れみです。民は荒れ野で神の恵みを学び、味わったのです。

 私たちも、荒れ野を通るとき、真剣に祈ります。そして、荒れ野で本当に頼りになるものは何か、ということを知り、学びます。真の神を畏れ、真の神に頼り、万事を益としてくださる神の恵みを味わいましょう。
 
 主よ、突然、人生の荒れ野に迷い込んでしまうことがあります。どうして良いか分からず、途方に暮れるようなこともあります。祈りが祈りにならないようなときもあります。その呻き、嘆きに応えてください。平安と慰めをお与えください。その荒れ野で主と出会い、その恵みを知ることが出来ますように。そのために、信仰の目が開かれますように。 アーメン