「身売りをした後でも、その人は買戻しの権利を保有する。その人の兄弟はだれでもその人を買い戻すことができる。」 レビ記25章48節

 25章には「安息の年とヨベルの年」についての神の教えが記されています。

 まず、「安息の年」について、2節で「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい」と言われます。「主のための安息」とは、七年目に全き安息を土地に与えることであり(4節)、それは、畑に種を蒔かず、ぶどう畑の手入れをせず、また休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れをせずにおいたぶどう畑の実を集めないことなどです(4,5節)。

 これはちょうど、一週間に一日を安息日としてあらゆる仕事を休むように、七年のうち一年は安息の年として、土地に安息を与えると言われるわけです。安息日を守ることは問題が少ないだろうと思いますが、土地を一年休ませれば、その年の収穫は全く期待出来ません。収穫なしでは、早晩生きていけなくなります。どうしたらよいのでしょうか。

 そのことについて、神は「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまで、それに頼ることができる」(21,22節)と言われました。

 それは、シナイを旅するイスラエルのために、6日目には二日分のパンを与えて、安息日にマナを集めに行かなくてもよいようにされたことで、既に実証されています(出エジプト記16章5節、22節以下)。

 しかしながら、一年間畑を遊ばせて、次の年の収穫まで、1年半以上もあるとなれば、この規則を守るのは、実際には容易いことではありません。神が言われたとおり、6年目に3年分の収穫があり、それをきちんと管理すれば問題はないということにはなります。

 しかしながら、豊作だったからと気が緩み、つい無駄遣いをしてしまうというのが、世の常、人の常です。恵みの主に依り頼みつつ、その恵みを疎かにしないようにしなければなりません。

 次に、「ヨベルの年」について、8節以下に規定されています。安息の年を回数えた年の翌年(8,10節)、即ち「五十年目はあなたたちのヨベルの年である」(11節)と言われます。「ヨベル」とは、ヘブライ語で「雄羊の角」のことです。国中に雄羊の角のラッパを吹き鳴らしてその年を聖別し、全住民に解放を宣言することから(9,10節)、「ヨベルの年」と呼ばれます。

 ヨベルの年は安息の年ですから、種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずに置いたぶどう畑の実を集めることも出来ません(11節)。さらに13節には、所有地の返却を受けるとあります。つまり、50年ごとに嗣業の地が元の持ち主に返されるというわけです。そうすることで、どの人も神の嗣業の地を損なうことなく、共に神の民として生きることが出来ます。

 また、土地だけでなく、奴隷に売られた人も家族のもとに帰らせよと言われます(10節、39節以下)。これも、イスラエル各部族の士族、家族が損なわれないようにするためということでしょう。

 まるで、我が国の鎌倉時代に、元寇戦役の負担などによって没落した御家人を救済するために発布された「徳政令」のようです。貧窮した人々を救済するためには非常によさそうな制度です。

 けれども、買い取ったものを無償で元の持ち主に返さなければならない時が来るということになれば、高いお金を払って他人の土地を手に入れるという行動を誰も起こさなくなるでしょう。そうなると、貧窮者は逆に生活に困ってしまうことになるかも知れません。だからなのか、ヨベルの年が守られたという記述は、聖書中、どこにも見当たりません。

 けれども、主なる神ご自身が歴史的に、バビロン捕囚(紀元前587年~538年)によってヨベルの年を実施され、その期間、イスラエルの地は安息を得ました(歴代誌下36章21節参照)。そして、バビロンの奴隷となっていたイスラエルの民が50年目にペルシア王キュロスによって解放され、嗣業の地に戻り、神殿を再建することが許されたのです(同23節、エズラ記1章)。

 さらに主は、イスラエルの民のみならず、罪の奴隷となっていた私たちをも(ヨハネ福音書8章34節、ローマ書6章16節)、独り子という高価な代価を払って、買い戻されました。その贖いの御業により、私たちは神のものとされたのです(ローマ書6章16節以下、第一ペトロ1章18,19節)。

 冒頭の言葉(48節)で、奴隷となっていた者を買い戻すのは、その兄弟や伯父、従兄弟という血縁者でした。主なる神が御子キリストの命の代価で私たちを買い戻してくださったということは、主が私たちの血縁者となってくださったということです。

 その事実から、私たちが主イエスを信じたから、神の子となる資格が与えられたのではなく、主が私たちを神の子とするために、先に贖いの業を行っておられ、その上で、主イエスを信じるように私たちを導かれたということが分かります。それは当に一方的な主の恵みです。ハレルヤ!

 その恵みを無駄にすることがないよう、日々主の御言葉に聴きながら、主の証人としての使命を全うできるよう、聖霊の満たしと導きを祈りましょう。その力を受けて主の御業に励む物とならせていただきましょう。

 主よ、御子イエスの血の代価によって贖いとられた私たちです。頭なるキリストによって一つからだとされ、御言葉に聴き従って歩み、互いに愛し合って主の栄光を表すことが出来ますように。主の御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン