「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」 レビ記20章26節

 主なる神は冒頭の言葉(26節)で、イスラエルの民をご自分のものとするために諸国の民から区別した、と言われました。だから、聖なる者となり、自分を清く保つために、汚れた動物などを食べたり、それに触れたりしてはならない、清いものと汚れたものとをはっきり区別せよというのです(25節)。

 このことで、二つのことを思わされます。一つは、諸国の民から区別される前のイスラエルは、決して特別な存在ではなかったということです。区別される前から特別な存在、清い民であれば、わざわざ「諸国の民から区別」する必要はありません。

 イスラエルは清い民であったから選ばれ、他のものと区別されたというわけではないのです。であれば、彼らの側に選ればれるだけに理由があったわけではなく、一方的な神の恩寵、恵みと憐れみによる選別といってよいのでしょう。

 そうすると、もう一つのことが気になります。それは23節で「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない」と言われていますが、当時のイスラエルの民と他の諸国の民の風習も、それほど大きな違いはなかったことでしょう。であれば、他の国々の風習に倣わない道を歩むというのは、決して容易いことではなかったのではないでしょうか。

 22節で「あなたたちはわたしのすべての掟と法を忠実に守りなさい」と告げ、そして25節で「あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない」と命じています。神の教えに従って、清いものとそうでないものとを区別し、汚れたものから離れた生活をせよというわけです。

 しかしながら、イスラエルの民は、神の御言葉に忠実に歩むことが出来ませんでした。むしろ、御言葉に背き続ける道を歩みます。繰返し預言者が遣わされ、背きの罪を離れるよう警告しますが(列王記上17章、列王記下17章など参照)、結局、神に導き入れて頂いた約束の地カナンから、叩き出されることになってしまうのです。

 つまり、人は自分の知恵や力、考えで、神の御言葉に忠実に従うこと、その道を清く保つことは出来ないということです。

 そこで示されるのが、詩編51編のダビデの詩です。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(4節)と願った後、12節で「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と求めました。自分の罪咎が清められるだけでは、また同じことを繰り返してしまいます。

 たとえが不適切かも知れませんが、放漫経営のために倒産寸前の会社の債権をすべて肩代わりしてくれる人がいて、それで倒産を免れても、経営陣が刷新されなければ、結局また倒産に追い込まれてしまう結果となるでしょう。

 そこで、経営陣を刷新し、新しい方法で会社を再建してくださいと願うのです。それが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」という祈りなのです。これは、実に虫のいい祈りでしょう。しかしながら、それ以外に、罪人が清い生活に戻り、その歩みを保つ道はないということなのです。

 このことについて、預言者エレミヤが「新しい契約」(エレミヤ書31章31~34節)について告げた後、32章39,40節で「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」と預言しています。

 この預言は、神の御子イエスが十字架で血を流されることによって、成就しました(ヘブライ書9章15節以下)。キリストの血潮により、罪が清められたのです。

 また、第二コリント書3章18節に「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。聖霊の力で新たに造り替えられるのです。

 主の御前に謙り、御言葉に従って歩むことが出来るように、主に信頼し、絶えず「憐れみと祈りの霊」(ゼカリヤ書12章10節)を注いで頂きましょう。

 主よ、渇いている者に命の水の泉から価なしに飲ませてくださる恵みを感謝します。主にあって心の一新によって造り変えられ、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえさせてください。求める者には、聖霊をお与えくださいます。聖霊に満たされ、力を受けてキリストの証し人となることが出来ますように。 アーメン