「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 レビ記19章18節

 2節に「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とあります。これは、神聖法集(17~26章)のテーマであると共に、レビ記の中で繰り返し語られる大きなテーマです。

 「神は愛なり」(第一ヨハネ4章8節)と言われるように、主なる神は愛なるお方、慈しみ深く憐れみに富むお方でもあるのですが(歴代誌上16章34節など参照)、しかし、イザヤが預言者として召されるとき、セラフィムが互いに呼び交わし、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と唱えたことも、よく知られています(イザヤ書6章3節)。

 主は、罪に染まない聖い神であられます。けれども、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と唱えられる方は、御自分を聖く保つため、天の彼方に孤高を貫かれるというのではありません。神の清さは、愛の中に、愛を通して表わされます。

 そのことが、父と母を敬うこと(3節)、あるいは、貧しい者や寄留者を配慮することなどを通して(9節以下)、表わされます。また「隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(13節以下)と言われます。

 イスラエルの民をご自分の民として選ばれたのは、恵みと憐れみによって選ばれたイスラエルの民が、聖なる者としてその範を垂れることにより、すべての民に神の恵みと憐れみが表されるためだったのです。

 そうして、罪を憎まれる聖い神は、私たちを愛して、御子キリストを贖いの供え物とされ、罪の呪いから解放して下さいました。この神の御愛のゆえに、私たちが聖なる者として歩むように、求められるのです。

 ペトロが、「聖なる生活をしよう」という段落の中で(第一ペトロ1章13節以下)、「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(同22節)と告げているのも、聖さが愛を通して表わされることを示しています。

 19章を通じて「聖なる者となれ」と示されているところに、冒頭の言葉(18節)で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉が記されているのも、同じ消息です。

 隣人愛を説く掟は、「心の中で兄弟を憎んではならない」(17節)、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」(18節)という禁止命令と対置されています。憤りの感情に支配されず、隣人への愛を意志せよ、その幸福を図れというのです。

 第一の掟はどれかと尋ねられた主イエスは(マルコ福音書12章28節)、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました(同29節以下)。

 ここで、「隣人を自分のように愛しなさい」とは、口語訳の「自分を愛するように、隣り人を愛しなさい」という、自分を愛する自己愛を土台として、隣人を愛しなさいと命じているのではありません。岩波訳では「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう」と訳しています。

 私たちを愛してくださる主イエスは、「人の子には枕するところもない」(マタイ福音書8章20節)と言われていました。それは、家を所有出来ない貧しさと共に、自分のことを考えている暇もないということを示しています。

 パウロがそれを「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ書2章6,7節)と記しています。まさしく主イエスは、御自分のことは顧みず、私たちのことをご自分と置き換えて考えてくださり、救いの御業を完成してくださったのです。

 主の恵みに感謝し、主に愛されている者として、隣人を自分のように愛する者とならせてくださいと、聖霊の満たしと導きを祈り求めて参りましょう。

 主よ、あなたの恵みと慈しみは、永久に絶えることがありません。その深い憐れみにより、私たちは御救いに与リました。神の子とされたことを感謝し、絶えず主の愛と導きに応える信仰の歩みが出来ますように。聖霊に充たし、主の御業に励む者とならせてください。御心が、この地になされますように。 アーメン