「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」 レビ記18章21節

 3節に、「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない」と言われ、その風習とは、6節以下を見れば、近親相姦をはじめ、乱れた性的な関係のことであることが分かります。

 新共同訳聖書は、18章に「いとうべき性関係」という小見出しをつけています。イスラエルの民には、かつて奴隷とされていたエジプトや、これから獲得することになる約束の地カナンとその周辺に住む異国民らの、乱れた風習に染まず、神に選ばれた聖なる民として生きることが求められているのです。

 25節に「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである」とあり、イスラエルの民がカナンの地に定住出来るのは、先住民がその罪によって地を汚して罰を受け、追い出されたためだというわけです。

 ということは、彼らがエジプトやカナンの民の風習に従って歩めば、彼らも罰を受けて「先住民をはき出したと同じように、土地があなたたちを吐き出すであろう」(28節)ということなります。そこで、民全体が吐き出されてしまう前に、「これらのいとうべき事の一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から断たれる」(29節)と言われるのです。

 この規定の中で、冒頭の言葉(21節)だけは、性行為と直接関係がないように見えます。モレク神に子どもをささげるなというのは、偶像礼拝禁止条項です。それがここに入れられているのは、偶像礼拝が神との関係の乱れということで、乱れた性的関係との類似ということも出来るでしょうけれども、そうであるなら、カナンの代表的なバアルやアシェラの礼拝が取り上げられるべきです。

 「モレク」というのは、ヘブライ語の「王」(メレク)という言葉に、「恥ずべきもの」(ボシェス)の母音をつけて発音したもので、「恥ずべき王」という意味になるかと思われます。これは、列王記上11章7節では、アンモン人の神とされており、同33節ではミルコムとも呼ばれています。あるいは、それが正しい呼び名なのかもしれません。

 モレクの神殿は、エルサレムの南西ベン・ヒノムの谷トフェトに築かれました(エレミヤ書7章31節)。それは、ソロモンにより、異教徒の妻たちのために建てられたのです(列王記上11章5,8節)。

 ここは、エルサレムの町のごみやガラクタを焼却処分するところで、その火が消えることはなかったことから、ヒンノムの谷(ゲイ・ヒンノム)=ゲヘナとして知られるようになり、やがて、ゲヘナの火といえば、神の永遠の裁きの象徴となったのです。

 自分の子どもに火の中を通らせて、モレク神にささげるという祭儀が行われていました。大切な子どもをささげることで、なんとしても願い事を神に叶えてもらうという目的があったのでしょう。しかしそれは、神に与えられた命を神ならぬものにささげることであり、自分たちの将来を犠牲にすることです。

 21節の原文を直訳すると、「自分の種から、火によってモレクに与えてはならない」となります。これは、20節の「あなたの隣人の妻に種のためにあなたの性交を与えてはならない」という言葉で、隣人の妻に種を与えることと、モレクに自分の種の一つを与えることが並置されている事が分かります。

 隣人の妻との姦淫が、相手の家庭と自分の家庭の双方を破壊してしまうので、十戒で禁止され(出エジプト記20章14節)、20章10節で「必ず死刑に処せられる」と宣告されています。モレクに子をささげることが民の間に広がることで、主との関係が蔑ろにされ、主の民としての共同体を破壊し、将来を担う命を無駄にするという恐るべき罪とされているわけです。

 そして何と、ユダの王アハズ(列王記下16章3節)、同じく王マナセ(同21章6節)もこれを行っており、この罪によって繰返しその地が汚された結果、イスラエルの民は、この地から追い出され、亡国とバビロン捕囚という憂き目を味わわなければならなくなったわけです。

 改めて、イスラエルが自分の知恵や力で神の民となることは出来ません。人が自分でエデンの園を作り出すことは出来ないのです。イスラエルが神の民として選ばれたのは、ただ神の憐れみです(申命記7章6節以下参照)。

 エゼキエル書36章25,26節)で神が「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と宣言されています。

 これは、エレミヤが「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31章31節以下、33節)と語った「新しい契約」預言と同じ内容の言葉でしょう。

 それはまた、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。・・・御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(詩編51編12,14節)と求めた祈り願いに対する主の応答ともいうべきものです。

 主なる神は、求めるものに得させ、捜すものに見出させ、門を叩くものには開いてくださるよいお方だからです(マタイ7章7節以下)。

 主よ、何よりも先ず、神の国と神の義を求める者とならせてください。絶えず御言葉を通して清められ、新しい霊で満たしてください。心から、霊と真実をもって主を礼拝することが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン