「それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。」 レビ記17章4節

 17~26章は、レビ記の第二部といった構成になっており、新共同訳聖書にあるように、「神聖法集」と呼ばれています。このような呼び名がつけられるということは、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19章2節)というのが、第二部全体の主題であるということです。

 17章1節以下の段落には、「献げ物をささげる場所」という小見出しが付けられています。3節以下に、牛や羊、山羊を屠る場合は、常に献げ物として主にささげなければならないと規定しています。食用とするための屠殺でも、主への献げ物としてささげなければならないということは、それを「和解の献げ物」(5節)として献げるということになります。

 和解の献げ物のささげ方については、3章、7章11節以下にその規定があります。即ち、いけにえの血は祭壇の注ぎかけ、脂肪は宥めの香りとして燃やして煙とされます(6節、3章、7章31節)。

 いけにえの胸の肉は「奉納物」(テヌファー)として主にささげられた後、祭司のものとされます(7章30,31節)。また、いけにえの右後ろ肢は「礼物」(テルマー)として祭司とその子らに与えられます(同32節)。そして、それ以外の肉は奉納者自身に下げ渡されるのです。

 食肉について、和解と感謝の献げ物とされたいけにえの肉は、ささげられた日に食べねばならないと言われ(同15節)、満願の献げ物、随意の献げ物については、ささげた日とその翌日にも食べることができるとされています(同16節)。

 残った肉は三日目には焼き捨てねばならないと(同17節)、時間的な制限が設けられています。それは「不浄なもの」(同18節)となると言われます。「不浄なもの」(ピグール)は、「腐敗したもの」という意味を持っています。文字通り、食品衛生的に食べるわけにはいかない物になっていると解することもできるわけです。

 一方、いけにえとする場合の屠殺で、「野外で屠っていたいけにえ」と言われるということは、主への献げ物でないいけにえが「野外」、あるいは宿営の外で(3節)ささげられていたことを思わせます。7節の「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」という言葉が、それを明示しています。

 「山羊の魔神」と呼ばれるような異教の神にいけにえをささげていたということであるならば、それは明確に、十戒の第一、第二の戒め(出エジプト記20章3~5節)に背く罪です。「山羊の魔神」と訳されているのは、「雄山羊」(サーイール)の複数形「スイーリム)です。淫行を行った雄山羊に献げ物をするという表現から、これは、雄山羊の形をした異教の神々のことを指しているようです。

 歴史家ヨセフスの著書に、エジプトに山羊やその他の家畜を拝む慣わしのあったことが記されているそうです。祭司アロンが金の子牛像を造って拝ませたように(出エジプト記32章)、雄山羊の形をした偶像を拝むということがなされていたのでしょう。

 主の幕屋以外での献げ物を禁じることで、いけにえを献げて神を礼拝する場所は主の幕屋だけということになります。そうすることによって、異教の偶像にいけにえをささげて、それを拝むのを止めさせようとしているわけです。

 特に、冒頭の言葉(4節)のとおり「主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者とみなされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる」ということで、それがいかに重大な罪であるかを示しています。

 その意味で、当然、家畜を屠る度に、誰に対して献げ物をしようとしているのか、誰を礼拝しようとしているのかが問われることになります。そして、イスラエルの民は、そのような規定が設けられる必要があるほど、十戒に背き、異教の神礼拝を熱心に行なっていたわけです。

 サマリアの女が主イエスに「わたしどもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネ福音書4章20節)と言った時、主イエスは「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(同21節)と答えられました。

 そして、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(同23,24節)と仰っています。

 サマリアの女は、ゲリジム山とシオンの山、どちらで神を礼拝すべきなのかと問うたわけですが、主イエスは、神礼拝に必要なのは場所ではない、どのように神を礼拝するのかということが重要だと教えられたのです。

 それは、私たちを新しく生まれさせる聖霊の働きを通し、真理なる主イエスを信じる信仰によって、神を礼拝することです。その意味では、聖霊と主イエスと父なる神、三位一体の神を礼拝することが、まことの礼拝ということになります。

 日ごと夜ごと、私たちの体という臨在の幕屋、神の宮で(第一コリント書6章19節)、私たちと共にいてくださる主イエスを仰ぎ(マタイ福音書28章20節など)、聖霊に満たされて詩編と賛歌と霊の歌により、感謝して心から神をほめたたえる賛美のいけにえを献げましょう(エフェソ書5章18,19節、ヘブライ書13章15節)。

 主よ、霊によるあらゆる知恵と理解によって御心を悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、主をますます深く知ることが出来ますように。神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶことが出来ますように。 アーメン