「これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。」 レビ記16章34節

 16章には、「贖罪日」についての規定が記されています。ただし、「贖罪日」(ヨーム・キプリーム)という言葉は聖書中、23章27,28節、25章9節と、3回登場して来るだけです。「贖い」は「覆う、隠す」(カーファール)という言葉で、神の裁きから罪人を覆い隠すという意味で用いられています。

 1節に「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」と記されていて、これが、10章の事件の直後に、主がモーセに語られたものであることを示しています。ということは、11~15章の「種々の清めの規定」が、その間に割り込んだかたちになっています。

 主なる神の臨在の幕屋がイスラエルの民の宿営の真ん中にあるので、気を抜いて汚れを持ったまま幕屋に近づき、アロンの子らのように打たれることがないようにという、具体的な例証としたかたちです。

 2節に「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲の内に現れるからである」とあります。

 ここで「贖いの座」(カポーレス)は、上述の「キプリーム」「カーファール」と同根で、「覆い」という意味の言葉です。単純に箱の「蓋」というのが、初めの意味だったかも知れません。ここに「座」という意味はありません。宗教改革者マルティン・ルターがドイツ語訳聖書を翻訳しているときに作り出したものと言われています。

 「わたし(主=ヤハウェ)は贖いの座(カポ-レス)の上に、雲のうちに現れる」とあり、神が顕現され、アロンの祭儀を受けられる場ということで、その意味を込めて「座」という意味が加えられたわけです。「雲」は神の姿を隠しつつその臨在を示し、またそこには主の栄光が表されました(出エジプト記16章10節、24章16,17節、40章4節など)。

 また、「決められた時」とは、29節によれば「第七の月の十日」のことです。それが「贖罪日」と呼ばれるというのは、23章27節にそのように言われて初めて分かることです。この贖罪日の規定が実行されたという記録がありません。もとになった祭儀は初期の段階から存在していたようですが、国を挙げてそれを守るよう、規定が整えられたのは捕囚からの帰還後のこととされています。

 アロンが神の御前に出て大祭司の務めをなすのは年に一度、「第七の月の十日」の贖罪日ということですが、モーセは絶えず主の御前に進み、親しく御言葉を聞いています。モーセが特別な存在だということもあるかも知れませんが、神が呼びたいと思われるなら、一度と言わず、いつでも呼び寄せられるということでしょう。

 一方、11章以下の種々の清めの儀式において、贖罪の献げ物をささげることが規定されています。この規定が文字通り守られたならば、男だけで60万人、民全体で200万人というイスラエルの民のために、臨在の幕屋ではひっきりなしにいけにえがささげられることになり、屠られ、祭壇で焼かれた献げ物や、祭壇に注がれた血の臭いで、息もつけない場所になってしまったことでしょう。

 また、臨在の幕屋を引き継いだソロモンの神殿で、たとえば、生理の清めのためだけでも、毎月エルサレム詣でをしなければならないとなると、ガリラヤなど遠方に住む人々は、生活が成り立たなくなってしまいます。

 そのようなことのため、年に一度、贖罪の献げ物をささげる「贖罪日」が設けられ、そのときエルサレムに行き、まとめて一度献げ物をするというのは、様々な負担を考えると、神様の粋な計らいなのかなあと思ってしまいます。

 3節以下に、贖罪日の儀式について規定されていますが、興味深いのは、8節以下の「アザゼルのものに決まった雄山羊」のことです。アザゼルの語源は不明ですが、「主のもの」との対比で、神に背く悪魔的な存在を指しているのではないかと考えられます。

 アザゼルのための雄山羊は、イスラエルのすべての人々の罪責と背きと罪をすべて負わせて、生きたまま荒れ野に追いやられます。それは、悪霊に対していけにえをささげるのではなく、罪を負わせた雄山羊を、民の住むところから遠く離れた、悪霊の住む荒野に追放し、それによって、民の罪が宿営から取り除かれたことを象徴しているのです。

 そして、神はその計らいをさらに進めて、毎年ささげなければならない贖罪の献げ物、しかも、全世界のあらゆる世代の人々の罪を贖うための献げ物として、ただ一度、御子イエスをいけにえとされたのです。

 ヘブライ書10章に、「すべての祭司は、毎日礼拝をささげるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを繰り返してささげます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえをささげて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自身の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(同11~13節)と言われているとおりです。そのただ一度の献げ物で、すべてのものを贖い、清められたのです(同14節参照)。

 「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」(同18節)。日々主の十字架を仰ぎ、感謝をもって賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を主に献げましょう(同13章15節)。

 主よ、あなたは私たちに対する数知れない御計らいをもって、恵みに恵みを増し加えてくださいます。あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が、主を崇めよといつも歌いますように。 アーメン