「アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れにともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。」 出エジプト記30章7,8節

 主は、香をたく祭壇を造るように命じられます(1節以下)。この祭壇は、聖所の、掟の箱を隔てる垂れ幕の前に置かれます(6節)。聖所の入り口から中に入ると、右手にパンの供え物を置く机、左手に七つ枝の燭台が置かれ、正面にこの祭壇があって、至聖所、即ち垂れ幕を隔てた向こうに掟の箱があるという位置関係になります。

 ヘブライ書9章3,4節に「第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって」とあり、香をたく祭壇が至聖所にあるように記されています。

 けれども、冒頭の言葉(7,8節)にあるとおり、祭司たちが毎朝晩、七つ枝の燭台のともし火を整えるときに香草の香をたくためには、祭壇が垂れ幕の前、つまり聖所に置かれている必要があります。至聖所には、大祭司が一年に一度、贖罪日にしか入れないからです(レビ記16章、ヘブライ書9章7節)。

 少数ながら、写本の写字生の中にこの誤りを正そうと考えて、「金の香壇と」を2節に移して、至聖所ではなく「第一の幕屋」の中にそれがあるようにした写本もあります。

 ただ、レビ記16章12,13節に「主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである」とあります。

 ここでは、香炉に炭火を入れ、両手一杯に香を携えて垂れ幕の奥、すなわち至聖所で主の御前で香をたくのですが、その際、香の祭壇が至聖所に置いてあるかのように読めます。炭火を入れた香炉に香草の香を入れてたくと考えられるので、香の祭壇が至聖所に置かれている必要はないわけです。

 至聖所に入って務めをなす大祭司が香の煙を雲のごとく漂わせ、掟のはこの上の贖いの座を覆わせるのは、大祭司が死を招かないようにということですが、それは、雲が臨在の幕屋を覆って主の栄光が幕屋に満ちたという出来事を思わせ、雲のごとき香の煙によって神の栄光を覆い、大祭司がそれを直接見ることから守るということでしょう。

 また、民数記17章11節に「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、急いで共同体のもとに行って、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい。主の御前から怒りが出て、もう疫病が始まっている」とあります。

 モーセらに逆らって不平を行っているイスラエルの民に神が怒りを発せられ、そこでアロンが贖いの儀式を行うのですが、それによって災いが取り除かれたことから(同12,13節)、祭壇の炭火が民の罪を清める働きをするということが分かります。

 このことは、神殿で祭司の務めをなしていたイザヤが預言者として選び立てられるとき、セラフィムのひとりが祭壇から火鋏で取った炭火を持って来てイザヤの口に触れ(イザヤ書6章6節)、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(同7節)と言ったという箇所からも確認出来ます。

 毎日、香の祭壇で香草の香をたくように命じられているのは、聖所で働く者たちを守るためであり、また清めるためにそれをせよと言われているのでしょうか。

 ヨハネ黙示録に、香は祈りの象徴として登場します(黙示録5章8節、8章3,4節)。詩編の記者も、「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください」(詩編141編2節)と詠っていて、旧約時代から同様に理解されていたことが分かります。

 それは、朝に夕に、芳しい香りが香の祭壇から立ち上るごとく、祭司たちだけでなく、多くのイスラエルの民が神の御前に絶えざる祈りをささげていたということでしょう。そして、かつては神の幕屋、そしてエルサレム神殿の至聖所の前にしかなかった香壇が、どこでも主を信じる信徒たちが祈りをささげるとき、そこに置かれているかのようです。

 私たちにとって香の祭壇とは、聖霊のようです。聖霊は私たちを「イエスは主である」と告白する信仰に導き(第一コリント書12章3節)、そして祈りに導きます。ゼカリヤ書12章10節に「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」とあります。私たちは聖霊によって「アッバ、父よ」と神を呼ぶことが出来るのです(ローマ書8章15節、ガラテヤ4章6節も)。

 そして、聖霊は弱い私たちのために、言葉に表せない呻きをもって執り成し祈られます(ローマ書8章26節)。それゆえ、神が私たちのために万事を益となるよう共に働いてくださるのです(同28節)。

 また、聖霊は主の証人となる力を与えます(使徒言行録1章8節)。そのことについてパウロは、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と言います(第二コリント2章14節)。福音宣教を香りにたとえて語っているわけです。

 朝ごとに、夕ごとに、神の御前に進み、何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう。

 主よ、私たちを朝ごと夕ごとに、御言葉と祈りに導き、御旨を悟らせ、またそれを行う力を授けてください。御名が崇められますように。御心が地の上で行われますように。全世界にキリストの福音が告げ知らされ、イエスを主と信じ、告白する信仰の導きが与えられ、喜びと平和が満ち溢れますように。 アーメン