「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」 出エジプト記19章5節

 1節に、イスラエルの民が「エジプトを出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」とありますが、「三月目のその日」は、原文では「第三の新月」という言葉です。1月15日に出立していますので、第三の新月は、4月1日ということになります。

 彼等はレフィディムを出発してシナイの荒れ野に着き、山に向かって宿営しました(2節)。その山は、18節のシナイ山のことです。ただ、シナイ山の場所は諸説あります。その位置確認で最古のものは、紀元4世紀の修道士たちがジェベル・セルバルを選んでいました。

 しかし、6世紀中葉にユスティアヌス帝がジェベル・ムーサ(モーセの山の意)の麓に聖カタリナ修道院を創建して以来、ここがシナイ山であるとされ、それが今日の伝統的な位置となりました。頂上には石造りのチャペルが建てられています。

 その他にも、シナイ半島北部のジェベル・ハラル、あるいはアカバ湾の東、アラビア半島の山という説さえあります。そのように、神の律法を授けられた場所が確定出来ないのは、主なる神がそこを聖地とすることを望まれなかったということでしょう。つまり、どの国家にも属さない荒れ野の、人目から隠された場所において、神はイスラエルに律法を授けられたのです。 

 モーセが山を登って行くと、主なる神が彼に語りかけ、「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい」(3節)と言われました。そして先ず、「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを」(4節)と言われます。

 主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放し、そして、シナイ山のふもとまで連れて来たのを、あなたたちは見ただろうというのです。「鷲の翼に乗せて」(4節)と同様の表現が申命記32章11節にあり、「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」と記されています。

 申命記では主なる神を、雛を養い育てる鷲に見立てています。巣を揺り動かし、雛の上を飛び翔って、自らの翼で飛び立つように促し、上手に飛べずに墜落しそうになるときは、雛の下でその羽を広げて受け止め、翼にのせて運ぶというのです。また、母鳥の大きな翼は、雛の避難場所で、その翼の下で雛を守ります。

 イスラエルの民は、気がついたらシナイ山の麓に宿営していて、ここに来るまで何の苦労もなかったというわけではありません。むしろ、飲み水がない、食べるものがない、外敵に襲われるなど、苦労の連続でしたが、どんな時にも神が彼らの避け所となり、恵みを与え、かくて無事シナイ山まで連れて来られたのです。

 その恵みを受けたのは、冒頭の言葉(5節)のとおり、イスラエルの民が主の御声に従い、その契約を守ることを通して、世界のすべての民の中で、神の宝となるためです。

 ここで神は、私たちのことを「わたしの宝」と呼んでくださいます。イザヤ書43章4節の、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し云々」という言葉も、似たような消息を示していると思います。私たちが自分で自分のことを「神の宝」と主張したり、価高い存在と自惚れているのではありません。神がそのように言い表してくださるのです。

 この宝は、いつも宝箱に納められていたわけではありません。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の家で苦しみ、呻き声を上げていました。神は民の苦しみに目を留め、その呻きを聞いて、救い出してくださったのです(3章7節)。

 それは、主イエスがルカ福音書15章のたとえ話を通して語られた、神の姿そのものです。神は、迷子になった一匹の羊を捜し回る羊飼いのように、なくした1枚の銀貨を捜す女のように、そして、親不孝の弟息子を待ち続け、ぼろぼろになって帰ってきたら最上のもので喜び祝う父親のように、そうするのが当たり前だといって、無限の愛をイスラエルの民に、そして私たちに注いでくださるのです。

 神が私たちを宝と言われるのは、宝箱に陳列しておくためではありません。神は、祭司の王国の聖なる民として、神と世界中の人々のために執り成し、そして、御言葉に聞き従うように語り広める使命を委ねるために選ばれました。「世界はすべてわたしのものである」と言われているのは、神の御心が全世界に伝えられるために、私たちが神によって選ばれたということなのです。

 主イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と言われています。

 私たちを任命してくださった主の御言葉に耳を傾け、私たちに「せよ」と言われることを精一杯、心を込めて行いましょう。

 主よ、私たちは何者なので、御心に留めてくださったのですか。私たちが何者なので、これを顧みられるのですか。その限りないご愛のゆえに、ただただ驚くばかりです。心を尽くして感謝をささげ、喜びをもってその驚くべき御業を語り伝えます。聖霊の満たしと導きに、日々与らせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン