「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。」 創世記49章33節

 死期が近づいたことを知ったヤコブ=イスラエルは(48章21節)、息子たちを呼び寄せ、「後の日に起こること」を語りたいと言います(1節)。新共同訳は、ここに「ヤコブの祝福」という小見出しをつけています。

 しかしながら、それはこの段落を必ずしも正しく言い表してはいません。長男ルベン、次男シメオン、三男レビに与えたのは、後の日に起こることというより、過去に行ったことに対する叱責、また呪いです(4,7節)。

 後に約束の地カナンに嗣業を得るとき、ルベンはヨルダン川東部に一地域を与えられたものの強力な部族になることはなく、シメオンとレビは部族としての嗣業の地を受けることが出来ませんでした。その理由がどこにあるのかということを、ここに予め告げたものとなっています。但し、レビは神を嗣業とするという名誉ある務めが与えられるので、その扱いが平等であるとも言えないように思われます。

 これら三人とユダとヨセフを除く他の七人については、扱いはごく小さいものになっています。その中でゼブルンについて「海辺に住む」、「舟の出入りする港となり」(13節)と言われますが、古代、パレスティナの海岸に舟の航行に良い港はなく、また、ゼブルンが後に与えられる嗣業の地に、海岸線はありませんでした(ヨシュア記19章10節以下)。

 12人の子らの中で、ユダとヨセフは特別扱いを受けています。このユダとヨセフ両部族は、この後、王国時代に重要な役割を担うことになります。

 ユダについて10節に「王笏はユダから離れず」という言葉が出て来ますが、イスラエル第2代の王となったダビデはユダ族で、彼の子孫が代々の王となって一時代を築きました。

 「ろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ」という11節の言葉は、通常、ろばが葡萄を食べ尽くしてしまうから、そのようにすることはあり得ないと思われます。そんな不注意なことをする人、着物をぶどう酒で洗う人は、当にパラダイス的と言える程の豊かさの中に住んでいる人です。

 「ついにシロが来て」(10節)という言葉は難解ですが、シロを「彼の支配者」(モーシェロー)と読む読み方が提唱されており、それによって、これはユダの子孫にメシアが出るという言葉と解釈されて来ました。そして確かに、ダビデの子孫として主イエスがこの世においでになったのです。

 ヨセフについては「あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物に優る。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり、兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように」(26節)と、最高の讃辞が述べられます。

 ヨセフの子孫は、マナセとエフライムがヤコブの子として、他の兄弟たち対の子孫に並び、パレスティナの中央部(ヨシュア記16章)およびヨルダン川東部に嗣業を受け(同13章29節以下)、大勢の人口を持つ部族に成長しました。

 ヤコブがエフライムをマナセに先立てて祝福しましたが(48章19,20節)、ソロモン以後、イスラエルが南北に分裂した際、エフライム族出身のネバトの子ヤロブアムが北イスラエル王国の初代の王になるなど(列王記上11章26節以下、37節、12章20節)、中心的存在となります。

 イザヤ書7章2節に「アラムがエフライムと同盟した」という言葉がありますが、エフライムが北イスラエル全体の代名詞のように用いられています(エレミヤ書7章15節、エゼキエル書37章16節、ホセア書4章17節など)。

 子らを祝福し終えたヤコブ自身の生涯は、波乱万丈と言ってもよいものでした。必ずしも、人々から褒められるような生き方をしたわけではありません。むしろ、後ろ指を指されるようなところもあります。けれども、息子たちに祝福を与え、自分の遺体は先祖代々の墓地に葬るように命じた後、最期は冒頭の言葉(33節)のとおり、寝床の上で息を引き取るという、とても穏やかなものでした。

 ヤコブの死に際して、「ヨセフは父の顔に伏して泣き、口ずけした」(50章1節)と記されている以外の感情表現はありません。ヤコブ自身にも、動揺している様子は見られません。悲しみ嘆いたり、あるいは、死の向こうに何かを期待するという様子もありません。死という現実を素直に受け止め、それに身を委ねたようです。

 それは、かつて、兄エサウを恐れて神の御使いと格闘したペヌエルの出来事とは対照的です(32章23節以下)。ここにヤコブは、生への執着などではなく、祝福を与えてくださる主なる神に信頼し、その手に自分を委ねる信仰に生きていたことが明示されています。

 最後に、「先祖の列に加えられた」と記されています。これは、遺体が先祖代々の墓に納められたという表現のようですが、アブラハムの祝福に与り、その力に支えられて生き、その祝福を次の世代に手渡して、祝福の列に加えられたと読んでもよいのではないでしょうか。

 モーセに対して神ご自身が、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)と言われています。確かにヤコブは先祖の列に加えられたわけです。

 主イエスを信じる信仰によって、私たちも「アブラハムの子」(ガラテヤ書3章7,9節)とされました。常に主を仰ぎ、祝福の内を歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたを信じます。御言葉を信じます。神の祝福、そこに愛が溢れています。恵みが溢れています。その祝福を信じ、家族のために、隣人のために祝福を祈っていきたいと思います。私たちの歩みを祝福し、その地境を広げてください。 アーメン