「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」 創世記44章33節

 扇谷正造氏の著書に『トップの条件』(PHP研究所、1983年刊)という本があります。30年程前、牧師となった最初の任地、松山の書店で求めました。この本には、リーダーとなる人物に求められる条件などが述べられています。副題は「『恕』一字で萬事」です。

 「恕(じょ)」は「如」と「心」の組み合わせ文字です。「如」は「似ている、同じ、等しい、らしくする」といった意味に用いられます。それに「心」を組み合わせて、「恕」は「心を等しくする」という文字となります。そこから、相手の立場に立つ、人の身の上や心情について察し、同情すること、思い遣りということです。訓読みは「恕(ゆる)す」です。

 そこに紹介されているエピソードで、弟子の子貢が師である孔子に「人生において大切なことを一字で表わすと、なんという字になりますか」と尋ねたところ、孔子は「それ、恕か」と言ったという話が記されています(P.76)。これが、副題の意味です。

 ヤコブの4男ユダがエジプトの司政者となっているヨセフに対し、末弟ベニヤミンを守ろうとして語る18節以下の言葉は、私たちの心を揺さぶります。

 ヨセフは、再び穀物を買いに来た兄弟たちを自宅での食事に招き(43章32節以下)、帰りには、執事に命じて袋一杯に穀物を入れさせ、その袋に代価として支払われた銀貨を返すようにしました(1節)。彼らを特別な賓客として遇したわけです。その上で、自分の銀の杯をベニヤミンの袋に入れて置くように言いつけました(2節)。兄弟たちは何も知らずに家路に着きます(3節)。

 町の門を出て、どれほども行かないうち、それこそ兄弟たちが夕べの宴会の席のことをあれこれ思い巡らしているうちに追手がやって来て、「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ」(4節以下、6節)と詰問されます。

 身に覚えのない彼らは、おのが身の潔白を証明するため、自分たちの持ち物を調べて、「僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります」(7節以下、9節)と申し出ます。それは、単に盗みというだけでなく、「占い」というエジプトの習慣に手を出す、神を冒涜する行為だったからでしょう。

 それに対して執事は「その者はわたしの奴隷にならねばならない。他の者には罪はない」(10節)と答え、年長者の袋から順に、念入りに調べます。最後にベニヤミンの袋を調べたところ、銀の杯が見つかります(12節)。

 犯罪が明らかになり、弁解の余地はありません。皆すごすごと町へ引き返し(13節)、ヨセフの屋敷に戻ります(14節)。そして、「お前たちのしたこの仕業は何事か」(15節)と問うヨセフに、御主君に何と申し開きできましょう。・・・神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります」(16節)と答えました。

 ヨセフがこのような策を弄したのは、母ラケルから生まれたもう一人の兄弟ベニヤミンを自分のもとに留まらせたいという思いからであろうと考えられます。「杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかの者は皆、父親のもとへ帰るがよい」(17節)と言っているからです。

 けれども、自分の身の上を明かさないまま、血のつながった、しかし自分をエジプトに売った犯罪には加わっていない弟ベニヤミンを犯罪者とし、その罪を暴くという方法をとっていることから、奴隷として売られたエジプトの侍従長ポティファルの家で自分が蒙った苦しみを、兄弟たちにも味わわせようという思いが全くなかったとは言えません。

 けれども、ユダが「神が僕どもの罪を暴かれた」というとき、それはベニヤミンのことだけでなく、自分たちがヨセフになした罪のことも告白していると思われます。ということは、神がヨセフを用いて、このように兄弟たちを真の悔い改めに導こうとされているといってもよいのではないでしょうか。

 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章9節)とあるとおり、主なる神は彼らの罪を赦し、罪の呪い、過去の出来事に対する後悔の念から解き放ってくださろうとしているということです。

 ヨセフの言葉(17節)を聞いたユダは、父ヤコブがいかに末息子ベニヤミンを愛しているかという事情を、彼が戻らなければ、白髪の父を悲嘆のうちに陰府に下らせることになると説明します(24節以下、30,31節)。

 そして、冒頭の言葉(33節)のとおり、「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」と懇願しています。

 ユダはまさに「恕の精神」を発揮して、ここに弟ベニヤミンの罪を引き受け、またベニヤミンを失ったときの父ヤコブのことを思い遣り、父に対してなした保証を実行するために、自分自身を犠牲として司政者ヨセフの前に投げ出したのです。

 この物語は、ユダの子孫、ダビデの子としてこの世に来られた主イエス・キリストの十字架を思い起こさせます。主イエスは、罪の虜になっている私を救うため、十字架にご自身を投げ出して罪の呪いをその身に引き受け、私たちが父なる神の許、本籍のある天に安全に帰って行けるように道を備えてくださったのです。

 この主の「恕(ゆるし)」を味わわせて頂いた者として、私たちも互いに愛し合い、その喜びを証しする者にならせて頂きましょう。

 主よ、ヤコブの息子たちが自分たちの罪に気づかされたように、私たちもあなたの御前に立つときに、おのが罪を自覚せざるを得ません。けれどもそこには、裁かれる恐れではなく、罪赦された喜びがあります。御子イエスが私たちの罪を身代わりに負ってくださったからです。今はただ、喜びと感謝をもって主にお従いするのみです。ハレルヤ! アーメン