「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」 創世記32章29節

 イスラエルというヘブライ語は、「神が支配される、神が保持される、神が守られる」という意味だろうと言われます。これまで、神が共にいて、守り、祝福に至らせるという信仰について、学んで来ました。

 23節以下の段落で、ヤコブが何者かと夜明けまで「格闘」(アーバク)したことが記されています(25節)。格闘、レスリングです。日本流に言えば、相撲をとったというところでしょう。「夜明けまで」というのですから、一晩中相撲をしていたわけです。

 その人は、勝てそうにないとみて、ヤコブの腿の関節を打ってはずしました(26節)。それから、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」(27節)と言います。ヤコブが、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(27節)と答えると、その人はヤコブに名を尋ねた後(28節)、冒頭の言葉(29節)のとおりヤコブを祝福しました。

 ヤコブには、どうしても神の祝福に与りたいという強い思いがあったと思います。彼は、二人の妻、二人の側女、11人の息子に最低一人以上の娘、そして、たくさんの家畜の群れ、僕たちを連れて故郷に帰って来ます。無一物で家を出たのに、大成功を収めて戻って来ました。

 故郷に錦を飾るというところです。胸を張って家に戻れるわけですが、当のヤコブは、家が近づくほど小さくなり、心配が増して来ました。それは、あの自分の命を狙っていた兄エサウはどうしているだろうか、まだ自分に対する恨みが消えていないのではないかという心配です。

 それで、セイル地方、エドムの野にいる兄エサウのもとに使者を走らせて帰郷を知らせると(4~6節)、兄はヤコブを歓迎するために四百人の供を連れて迎えに出るという答えです(7節)。それを聞いたヤコブには、それが歓迎の徴とは思えず、とても恐怖の念が湧き上がってきました。

 どうすればよいかとあれこれ考えて、まず群れを二組に分け、前が襲われている間に逃げようという算段をします(8,9節)。そして、神が守ってくださるように祈ります(10節以下)。その後、ヤコブは兄に贈り物をして機嫌を取ろうと考えます。14,15節に贈り物のリストがありますが、なかなかたいしたものではないでしょうか。

 こうして二重三重の備えをして夜、寝もうとするのに、いよいよ明日は兄と対面だと思うと、どうしても寝付けません。そこで、贈り物の群れをまず送り出し(22節)、次いで、家族を連れてヤボクの渡しを渡ります(23節)。持ち物も渡らせた後、ヤコブだけその場に残ります(25節)。その時、何者かがヤコブに襲いかかり、格闘したというのが上述の話です。

 あらためて、冒頭の言葉(29節)でヤコブは神の祝福として、まず「イスラエル」という名を受け取りました。ヤコブとは「かかと」に由来する名で(25章26節)、それはまた「押しのける、奪い取る、だます」という動詞と同根なので、父をだまし、兄を出し抜いたとき、その名の由来が説明されています(27章36節)。

 そのヤコブに、上述のとおり「神が支配される、神が守られる」という名を与えられたのです。自分自身のために、自分の力でというエゴの突っ張った人間ではなく、神に頼り、神の守りに与る人間になれと言われているわけです。けれども、それはヤコブが自分の思い、自分の考えでなし得られるものではありません。まさに、神の御業です。

 第二は、それと明言されているわけではありませんが、「腿を傷めて足を引きずっていた」ことです。彼はこれまで何度も、他者を足で蹴飛ばし、押しのけて欲しい物を手に入れ、苦境に陥ればその足で逃げ出して来ました。けれども、これからは、そのような強い足ではなく、彼を守られる神に頼るほかはありません。

 それは神の御心に適ったことでした。痛んだ足を引きずりながら嘆くヤコブに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント書12章9節)と、祝福を語られるでしょう。

 神はいつも私たちと共にいてくださり、私たちが神を認め、神に信頼するならば、いつでも私たちのために必要な御業を行ってくださるのです。主を真剣に尋ね求め、祝福に与る経験、主にあって強められる経験を持たせて頂きましょう。

 主よ、あなたがいつも共にいてくださるという子と、どこにいても守り支えていてくださるというのは、頭で分かることではなく、恐れと不安の中にあって、実際に心と体で味わい知るものです。困難にぶつかる度毎に、祝福してくださるまで離しませんと祈り求めます。あなたが祈りに答えてくださることを信じて感謝します。 アーメン